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2017-4-2 四旬節黙想会

澤田豊成神父(聖パウロ修道会)

尽きることのない命の恵み
──洗礼の秘跡の豊かさを思い起こす──


第一講話

 今日は四旬節第5主日です。四旬節の主なテーマは2つあります。一つは「回心」です。そして、これに結びつく「犠牲」、「節制」、「貧しさの意味」などです。
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 もう一つは「洗礼」です。四旬節は、直接には復活の主日に洗礼を受けることを望んで歩んでいる志願者が直前の準備をおこなう期間です。しかし、同時に、教会全体が新しい霊的家族を迎え入れ豊かにされるのを待ち望みつつ、彼らのために祈り、またすでにわたしたちが受け、そして今もそれに満たされているはずの洗礼の恵みの豊かさをもう一度思い起こす期間でもあります。すでにわたしたちが体験をとおして知り、生きていることを、洗礼志願者たちに証しするのです。彼らもそのように駆り立てられていくためです。しかし、人間は弱いものです。どんなにすばらしい恵みを受けても、時とともに、それは色あせていきます。深める努力をしなければ、なおのことそれは忘れ去られていきます。だから、四旬節にわたしたちはこの秘跡の豊かさと決定的重要性を思い起こし、心に刻み直し、新たな豊かさを発見するのです。

 特に、四旬節第3、第4、第5主日は、洗礼志願者のための典礼がおこなわれます。さらに、典礼暦年のA年、つまり今年は、伝統的に洗礼志願者のための福音として読まれてきた個所が朗読されます。イエスとサマリアの女性の対話(ヨハネ4・5-42)、生まれつき目の見えない人のいやし(ヨハネ9・1-41)、ラザロの復活(ヨハネ11・1-45)です。叙唱もA年のみ固有のものが 用意されています。

 典礼暦の視点から、教会がこれらの福音をとおして洗礼の秘跡の豊かさを示し、洗礼志願者を励まそうとしていることが分かります。サマリアの女性との対話では、イエスが「生ける水」(4・10)を与えてくださること、この「水を飲む人は、永遠に渇くことがない」(4・14)こと、それどころかこの「水は、その人の中で泉となって、永遠の命に至る水が湧き出る」(同)ことが宣言され、さらには「霊と真理」(4・23、24)とに満たされ、神のみ心にかなう、「まことの礼拝をする者」(4・23)とされることが述べられるのです。しかも、この恵みを受けた人は、ユダヤ人と敵対していたサマリア人であり、しかも女性です。結婚関係の問題から、社会の中で難しい立場に置かれていた女性であることもうかがえます。にもかかわらず、彼女は町へ行き、この喜びの出会いを人々に告げ知らせる者となります。

 そして、生まれつき目の見えない人のいやしの物語では、目が開かれ、見えるようにされただけではなく、イエスを信じる信仰の目が開かれたことが宣言されます。見えないイエスの神秘を見ることができるようにされたのです。「あの方が、わたしの目を開けてくださったのです。……生まれつき目が見えない者の目を開けた人がいるなどということは、いまだかつて聞いたことがありません。もしあの方が神のもとから来られたのではなかったなら、このようなことは何一つおできにならなかったはずです」(9・30、32-33)。「彼は、『主よ、信じます』と言って、イエスを礼拝した」(9・38)。社会的には「罪人」とみなされていたこの人も、イエスのこの恵みを受けて、ユダヤ人指導者たちの前で力強く信仰を宣言しています。

 さらに、ラザロの復活の物語では、イエスを信じる者が永遠の命の恵みを受けることが、ラザロの復活をとおして、証しされます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。生きていて、わたしを信じる者はみな、永遠に死ぬことはない」(11・25-26)。「マルタは答えた。『はい、主よ、あなたがこの世に来られるはずの神の子、メシアであると、わたしは信じております』」(11・27)。

 わたしたちは、これらの恵みを洗礼の秘跡をとおして受け、これらの恵みに今も満たされているのです。イエスは、わたしたちの中で尽きることのない水となり、命となっておられます。また、わたしたちの目をこの見えない恵みを見ることができるようにしてくださいます。だから、わたしたちは、霊と真理において、まことの礼拝をささげないではいられないのです。毎週、わたしたちがミサのために教会に集まるのはそのためです。ミサは、まさにこの恵みの頂点です。ミサの中で、わたしたちはこの恵みを記念し、わたしたちがどれほどの者とされたのかを思い起こし、再び、日常生活へと戻っていくのです。ついには、このことを常に意識しながら生きる者、すべての中に神の見えない救いの恵みとそのわざを見ることができる者となることを目指して。

第二講話

妨げの中で
 洗礼のこれらの恵みのすばらしさは、目に見えないがために、実感すること、実感し続けることが難しいものです。しかも、わたしたちの周りには、これらの恵みを妨げるさまざまな要因があります。そして、わたしたちはしばしばそのことに気づかずにいることも多いのです。ヨハネ4章、9章、11章は、このような妨げに気づいていくうえでも、役に立つ個所だと思います。

 サマリアの女性は、最初からイエスの態度や言葉にとまどっているようです。「ユダヤ人のあなたが、サマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてくれとおっしゃるのですか」(4・9)。「わたしには夫はいません」(4・17)。イエスの答え、すなわち「あなたには五人の夫があったが、今のは夫ではない。あなたは本当のことを言ったわけだ」(4・18)との言葉から類推すると、彼女はどうやら結婚に恵まれず、5回結婚して、すべて夫に先立たれたのでしょう。周りは、彼女に問題があると考えていたことでしょう。もはや、結婚する決断もできなくなっていたのかもしれません。イエスは、明らかに周囲から距離を置こうとする女性のプライベートに踏み込んでいきます。人によっては、このようなイエスのなさり方を嫌がり、拒絶することもあるでしょう。しかし、女性はイエスを受け入れ、話を続けていくのです。こうして、イエスからの恵みがこの女性に与えられます。

 生まれつき目の見えない人のいやしの物語でも、神の恵みとわざを認めようとしない人々がいます。ファリサイ派の人々やユダヤ人指導者たちの一部は、自分の知識、経験から外れる、イエスのなさり方を認めることができません。いやしてもらった人の両親も、災難が自分に降りかかるのを恐れて、知らぬ、存ぜぬを通します。自分たちの子どもがいやされたという恵みを喜ぶよりも、厄介ごとに巻き込まれないようにすることに、力を注いでいます。それと比べると、いやしてもらった人の態度は際立っています。罪人と同類に扱われてきた人なのです。人々の前に立つのを避け、人ごみの中に紛れ込んで、隠れてしまうこともできたでしょう。しかし、彼はみずから進み出て証言します。指導者たちの前でも臆することがありません。自分が体験したことに基づき、そこに表れ出る神のわざを、ありのままに見つめようとします。

 ラザロの復活の物語では、イエスを信じているはずの人々にとっても、信じることは難しかったということが浮き彫りにされています。まず、イエスと弟子たちのやりとりは、信じて従っているはずの弟子たちの考え、心がいかにイエスとはかけ離れているかを示しています。マルタもそうです。マルタはイエスがメシア、神の子であることを信じています。しかし、イエスが何を言っても、ラザロは死んだという現実を前にすると、この見える現実を超えて、見えないイエスの力を信じることができません。死という現実が重くのしかかるのです。「イエスは仰せになった、『あなたの兄弟は復活する』。マルタは言った、『終わりの日の復活の時に、復活することは存じております』」(11・23-24)。イエスが今おこなおうとしておられるわざではなく、世の終わりのことへと先送りして、なんとか考えをまとめようとするマルタの考え方が伝わってきます。それは、ラザロの墓の前でも同じです。「イエスが、『石を取りのけなさい』と仰せになると、死んだ人の姉妹マルタは言った、『主よ、もう臭くなっています。四日目ですから』。イエスは仰せになった、『信じるなら、神の栄光を見ると、あなたに言ったではないか』」(11・39-40)。

 わたしたちは、このような妨げに打ち勝つほどに、洗礼の秘跡の恵みの豊かさを見つめ、これこそがすばらしい、選び取るべき恵みであると実感することが必要なのです。

イエスのなさり方
 一人一人に向き合ってくださるイエスのなさり方にも注目すべきでしょう。イエスは、弟子たちが食べ物を買いに町に行って、一人残されたときを見計らって、サマリの女性に声をかけられます。真昼間に町外れにある井戸に水をくみに来た女性には、どのような理由があったのでしょうか。イエスは、一対一で彼女に声をかけられます。しかも、彼女のプライバシーから始まって、神秘へと分け入っていかれます。イエスは、最初から生活とは無関係に思われる話をしたり、ご自分の素性を明かされたりはなさいません。
 生まれつき目の見えない人のいやしの際にも、ご自分の素性を明かすことをしていませんし、いやしの意味を説明することもしていません。また、いやされた人がファリサイ派の人々の尋問を受けたり、その人の両親が審問されたり、いやされた人が再び尋問されたりする間、イエスはこの人にかかわろうとはなさいません。わざと距離を置いているかのようです。イエスが彼のもとに行かれるのは、この人が外に追い出された後です。しかし、それはただ放ったらかしにしているということではなく、この人自身がみずからの体験を見つめ、イエスの神秘に自分なりにたどり着き、証言するようになるのを待っておられるかのようです。

 ラザロの復活の際にも、イエスはラザロの病気の知らせを聞いてもすぐに動こうとはなさいませんでした。「イエスは、ラザロが病気であることを聞いてからも、同じ所になお二日留まられた」(11・6)。ラザロが亡くなった後に、イエスはベタニアに向かわれます。マルタとマリアの落胆は大きなものでした。「マルタはイエスに言った、『主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう』」(11・21)。「マリアはイエスのおられる所に来ると、イエスを見るなり、足元にひれ伏し、『主よ、もしここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに』と言った」(11・32)。しかし、それは一時的にマルタ、マリアらを悲しませることになったとしても、それが目的ではなく、彼女たち、そして弟子たちが信じて、神の栄光を見ることができるためでした。「ラザロは死んだのだ。わたしがそこに居合わせなかったことは、あなた方のためによかった。あなた方が信じるようになるためである」(11・14-15)。「信じるなら、神の栄光を見ると、あなたに言ったではないか」(11・40)。「あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」(11・42)。

 イエスのなさり方は、わたしたち一人一人への深い愛からほとばしり出るものです。民族、性別を分け隔てすることはなさいません。しかし、だからこそ、わたしたちが踏み込んでほしくない内面にまで深く入り込むものでもあるのです。それは、時に大きな痛みを伴うものでしょう。悲しみ、苦しみをもたらすかもしれません。そうかと思えば、イエスがわたしたちのそばにいてくださらないと感じられることもあるでしょう。自分が一人放り出されてしまったように思われることもあるでしょう。しかし、それはわたしたちの真の信仰の成熟を願ってのことなのです。わたしたちは、このイエスのなさり方を、神の愛と恵みとして受け止め、わたしたちも同じように生きることができるように招かれているのです。

(広報委員会)

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