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2018-11-25 黙想会
-待降節に向けて-
 去る11月25日、待降節に向けた黙想会と題して、カトリック高槻教会より清川泰司(せがわたいじ)神父様をお招きしてミサ、講話、そしてゆるしの秘跡が行われました(テーマ「受肉した神の御心」)。
写真1
 今年の秋頃(9月頃)から委員会として準備を始めてきたのですが、私にとっては初めてのことばかりで、どうにかその運営がつとまるか否かという点では、多少の不安もありました。初対面の神父様と連絡を取るところから始まって、やったこともない司会のようなこともやり(それも必要なことであったか、議論もあると思います)、その日の午後ようやく神父様の車を見送るまで、気が抜けない中、何とか任務(?)をやり終えた気がしています。
 神父様のお話(講話)でいうと、私が興味深かったのは、旧約聖書の物語にその多くの時間を割かれたことでした。(中でも、アダムとイブ(エバ)の話は非常に人という存在の真実を突いていると、私はかねてより思っていました。)また、カインとアベル、バベルの塔の物語と、神父様が語られていたのは、終始一貫して、人間の愚かさ、浅はかさでした。
 ただ、その自信も特定の分野を対象とした限定されたものならまだ良いのですが、どうしても自分という存在への過大な「自己意識」へとつながるのは人間の性(さが)というものかもしれません。
 そうした人間の至らなさに対する救済として、神の御心を受肉したのがイエス・キリストであった、そう神父様は説かれます。
 「人を裁くな、あなたがたも裁かれないようにするためである」、「あなたは兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の丸太に気づかないのか」。あるいは、「三日で建てなおす」といった神殿のことも、イエスご自身の復活を意味していたこと等々。
 これら受肉したイエス・キリストの福音はクリスチャンなら、何度も読み聞かされてきたことですが、それをもう一度この黙想会でおさらいをしたような、良くまとめられた講話だったと思います。
写真2
 そして今回、会の運営を通じて私にとってははからずも多くの出会いや発見もありました。とくに、自分の意見への賛同を求めようと相談した相手から、逆に反対意見を言われたこともありました。人間、自分と同意見の人とは好 んで集まるのが通常ですが、でも、意見や考えが自分とは違う人と出会うことは、私にとってはむしろ貴重です。なぜなら、そこに勉強があるからです。
 その中で、私はこんどの黙想会で、昼食にお茶とスーパーのおにぎりしか出せないことを、内心、心苦しく感じていました。しかし、当日本番になって何人になるかわからない参加者の数、余っても大変ですし、足らなくても困るといった現状で、それなりの料理を用意しようとすると負担が大きいことには、合理性があり、正当性があり、経験的にも妥当な意見だというのはわかっていました。
 そうした時、私は思いがけずある日、ある年配の信徒の方にそのことを話す機会がありました(決して不平、不満というニュアンスではなかったのですが)。するとその方から「黙想会はパーティーやない。沈黙のうちに、謙虚に黙想し、内省し、内面を深める機会や。ならば、そんなぜいたくな料理なんて、なくて本来だ」ということをビシッと言われ、「本当にそうだ」と思ったことを私は今も忘れられません(もちろん、その方のアドバイスには感謝の気持ちしかありません)。

 また講話では、聖書を解説しながら、清川神父様が人間のちっぽけさや浅はかさを語る時、たびたび大阪弁で「俺もせやねん」とつけ加えておっしゃっていたのも印象的でした。それは、何もいい格好をして言うのではなく、「私だって同じだ」という神父様の思いであり、お人柄であり、同時に謙虚さがにじみ出た言葉だったのではないかと私は思います。
 そんな神父様のお話は決して重くなることはなく、関西弁のウィットと巧みな比喩やジョークを交えながら、もちろん内容充実でしたが、同時に笑いのたえない楽しいものとなり、色々と考えさせられ、学ぶことも多かった今年の待降節の黙想会も、私自身、明るく爽やかな気持ちで終えることができました。

 最後に今回の黙想会についてアンケートの集計があり、その中で、私の胸に響いたいくつかのご回答からそのひとつを匿名であることも踏まえ、ご紹介させていただきます。

『良かった! ちょっとわかった! おもしろかった! 神父様、ありがとう♡』

(広報委員会)

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