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2019-3-31 四旬節の黙想会

 四旬節第4主日の3月31日、日生中央教会の中村克徳神父様をお迎えして、黙想会が行われた。この日の福音は、"ルカによる福音"の15章1節からで、ファリサイ派の人々や律法学者たちが「この人は罪びとたちを迎えて、食事まで一緒にしている」とイエスをなじったときに、イエスが語られた放蕩息子のたとえ話である。
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第一講話
 中村神父様はまず、放蕩息子のたとえ話で、注意すべきポイントをいくつか指摘された。放蕩を尽くした弟は豚の世話をするまで落ちぶれたが、豚の世話はユダヤ人にとって屈辱的な仕事であること。弟はすべてを失ったとき、父のもとに帰ろうと自分の意志で決めたこと。父親は弟を待ちわびており、姿を見てみずから駆け寄ったこと。指輪を弟に与えたのは跡取りとしての権利をもう一度認めたこと。兄は「私の弟が」とは言わず、「あなたのあの息子が」と突き放していること。
 兄は当時の祭司や律法学者、弟は罪びと、徴税人を象徴している。自分の身に置き換えてみれば、表面的にだけ熱心な信者になってはいないだろうか、他人を非難すべき人々として切り捨ててはいないだろうか、と今一度反省しなければならない。四旬節は心を、生き方を神に向けて歩みなおすときである。もう一度洗礼を受けるのに等しい、許しの秘跡を受けて、神の恵みを頂こう。
第二講話
 中村神父様は2月に帰天された二人の先輩神父様と池田教会の聖堂に敬意を表されることから、講話を始められた。キリスト教の信仰には二つの大きな山がある。その一つは主の降誕。神が人となられた出来事である。人を救うためにつかわされたのだから、イエスは人にならなければならなかった。神は私たちにとってかけがえのない人を用意してくださったのだ。人間には初めがあるのだから、終わりもある。イエスは十字架にかかって命を捧げられた。もう一つの山は主の受難と復活である。ゆえに「イエスはまことの神であり、まことの人である」。この教義は、451年の公会議で定められた。
 イエスが十字架につけられたとき、両横に二人の犯罪人がいた。一人はイエスをののしり、一人はイエスにすべての望みをかけた。どちらの態度を取るかは本人の自由意志である。放蕩息子が父親のところへ戻ったように、神を信頼して神のもとへ行くのか、それを選ぶのは自分である。誰でも無差別に救われるのではない。信仰を生き抜いた人、神を信頼した人だけが神の国に入れるのだ。
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(広報委員会)

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