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2022-11-27 待降節黙想会
あなたの信仰があなたを救った
 11月27日に聖パウロ修道会の赤波江謙一神父様をお迎えして待降節黙想会がありました。待降節の最初の日に神父様のお話をうかがうことができ待降節を大切に過ごすこころの準備ができたと思います。
 黙想会は、コロナ前の従来の形式にもどりミサの中で第一講話、ミサ後に第二講話をうかがいました。
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第一講話
 今日の福音(マタイ24/37~44)に「人の子はくる」という言葉がくりかえしでてきます。人の子がくるとは、どういうことなのか.....これは非日常ではなく日常のことを言っているように思います。
 日常のこと、それは、善を行うこと、キリストを証しすること、十字架をになうことと置き換えた方がいいかもしれません。善をおこなう機会とは喜びを伝えるとき.....キリストのよろこび、平和、ぬくもり、息づかいをつたえることで、機会はたくさんあるけれどいつくるかわかりません。
 キリストを証しすることはキリスト者のつとめです。わたしたちは、キリストを証ししないで自分の証しをしたいとおもい自分の証しをしています。自分の存在を知らしめ自分の考えをおしつけようとします。自分の証しをしたいという気持ちを放棄することによってめぐみとしてキリストの証しをすることができるようになります。 十字架をになうとはどういうことか......十字架のイメージは、苦しみ、苦痛、できたら逃れたいと思います。しかし十字架の苦は、苦しみの苦だけではなく苦労を引き受ける意味もあります。苦労の労は、ねぎらう、いたわるの意味があります。ご苦労様ということばには感謝のおもいがふくまれています。共同体で自ら苦労をひきうける....これが十字架をになうことです。聖書には十字架を礼拝しなさい、感謝しなさいとは書いてありません。十字架を背負ってついてきなさいとあります。
 自分のこと自分の望み、欲望にとらわれていると自分自身でいっぱいになってまわりがみえなくなります。今日の聖パウロの言葉(ローマ13・11~14)のように目を覚ましていなければわたしたちの助けを必要としている人がいるのに気づかないかもしれません。聖パウロは品位をもって歩もうではありませんかと言っています。キリスト者としての品位です。イエスキリストを身にまといなさいとも言っています。何かにおぼれてしまうとまわりが見えなくなってしまいます。そういうことから目を覚ましキリストのよろこび、平和、ぬくもりを伝えるのです。神の助け、聖霊をもとめましょう。聖霊の働きによってキリストを証しすることができるのです。
第二講話
今日の黙想会のテーマは、「あなたの信仰があなたを救った」です。ルカ書には、4回この言葉がでてきます。ひとつは、イエスの足元に涙と香油を塗った罪深い女の話、二つ目は出血症で苦しんだ女の話、三番目は十人の重い皮膚病の人を癒してひとりだけもどってきて感謝した人の話、四番目は生まれつき目の見えない人の話。このひとたちに、キリストは「あなたの信仰があなたを救った」といわれました。今日は、この四番目の話をとりあげたいと思います。
 「あなたの信仰があなたを救った」といわれるけど盲人の何が信仰だったのか。彼は、律法を守るまじめなユダヤ人ではなかったでしょう。異邦人あるいは異教徒だったかもしれません。
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 ルカ18章のやもめと裁判官のはなしをみてみましょう。最初にこう書いてあります。「気をおとさずに絶えずいのらなければならないことを教えるために」と書いてあります。そして「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをほうっておかれることがあろうか。」と書かれています。神は何をさばいてくださるのでしょうか。それは、わたしをたえず苦しめているもの、悪霊ではないでしょうか。悪霊は、わたしたちの中にいてわたしたちを誘惑します。わたしたちの弱みにつけこみます。誘惑のはなしは、創世記と新約にあります。創世記3章にへびの誘惑のはなしがあります。アダムは誘惑に負けて禁じられていた木の果実をたべます。アダムはすぐにあやまったらひょっとしたらゆるされたかもしれませんが誘惑に負けただけではなく人のせいにして自分を正当化したのです。エバも同じです。
 新約(マタイ、マルコ、ルカ)では、イエスが誘惑に会った話が書いてあります。マタイ福音書にイエスが悪魔から誘惑を受ける話があります。神の子なら石をパンにかえるように、そして神殿の上から飛び降りるように、最後はひれ伏して悪魔を拝むように誘惑を受けます。イエスでさえ誘惑にあったのです。イエスさまにも神の子ならという人間としての弱みがあったのではないでしょうか。イエスは完全に退けられました。
 イエスさまにも弱みがあったのだからわたしたちにないはずがありません。私のことを証ししたいという誘惑です。自分の証しをするために自分の考えを押し付け、人の考えに耳をかたむけようとしません。自分を正当な人間であると証しすること....これを誘惑とは感じないのです。だれにでもある弱さ、かたむきなのです。自分の証しをしたい......悪霊の働きなのです。先ほどのルカ書の箇所の最後に「人の子が来るとき、果たして地上に信仰をみいだすだろうか。」とあります。信仰とは何でしょうか。イエスは答えをだしていません。人間の世界、次元のはなしではありません。神秘の世界のはなしです。わたしの力をこえた世界です。ゆるしの秘跡で、人間的な限界、どうしたらいいのかわからないと感じます。自分の力をこえた方、聖霊に祈ってください。盲人は「イエス、わたしをあわれんでください」と必死に叫びました。神を信じるだけが信仰ではありません。神の力を信じることが信仰です。神が望んでおられることは失望せずに絶えず祈ることです。
 自分の証しが中心になると心の平和をなくし祈らなくなります。悪霊の思うツボです。ヨハネ5:31に「もし、わたしが自分自身について証しするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさるかたは別におられる。」別のかた、それは聖霊です。イエス様でさえ自分のあかしをしたいという誘惑があったのです。
 自分を証ししたいとき、人を傷つけることなどおかまいなしになることがあります。わたしをこえたかたに頼るしかない、聖霊に祈るのです。聖霊来てくださいと祈りましょう。キリストからはなれたら自分教になってしまいます。自分を証しすることをやめてキリストを証しするのです。キリストのよろこび、微笑み、ぬくもり、愛を伝えるのです。

(研修委員会)
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