2024-7-12 池田・日生中央教会合同黙想会
7月12日宝塚黙想の家で英隆一朗神父様(六甲教会主任司祭)ご指導のもと合同黙想会が開かれました。 英神父様は神さまとの対話、交わりを大切にしてほしいのでこの黙想会を沈黙(食事を含めて)のうちにすごしてほしいと言われました。
ここは有名な山上の説教でイエスさまは8つの幸いについて語られています。ここは有名なところですが何をいっているかわからないところでもあります。心の豊かなひとは幸いならわかりますがなぜ「心の貧しい人は幸い」なのか。何で「悲しむ人が幸いなのか」イエスのみている視点とわたしたちの視点はちがいます。この山上に集まっている群衆はイエスに必死にたすけを求めている人々でほとんどが病人や困っている人々です。
さんざんな苦しみをかかえた人、こころによりどころのない人、罪だらけの人、そのひとたちが「こころの貧しい人」なのです。なぜその人たちは幸いなのか。それはイエスがいるからです。心細いあなたがたは私がいるから大丈夫だといわれているのです。ここで書かれている8通りの困った人々は私がいるから大丈夫ですよとイエスが言われているのです。
「柔和な人」というのは怒ることができない人、ペコペコせざるを得ない人、へりくだざるを得ない人のことです。「義にうえかわく人」とは不正義に苦しむ人です。
最初の4つの幸いに自分はどれに当てはまるか考えてみましょう。自分に言っていることばとして考えなければなりません。そしてイエスがいるから大丈夫というのはどういうことなのか黙想してみましょう。
ヘブライ語で幸いはアシュワールといいますがこれは「前に進む」という意味があります。前に向かって進む力がない時にイエスがいるからいっしょに前に進もうといっているのです。じっとしているのではなく未来に向かって歩むというニュアンスです。このイエスの呼びかけを自分がどううけとめるか黙想してみましょう。
この箇所はいろいろな解釈ができます。信仰のプロセス、イエスの弟子としてのあゆみとしてとらえることもできます。出発点は「心の貧しさ」です。教会にはじめて来るとき満ち足りているひとは来ません。心細さや充たされなさを感じてくることが多いです。そしてこの世でない価値観を感じるようになります。
「悲しむ人」とは何か。何に悲しむのでしょう。自分の罪を悲しむ、自分のいたらなさに気づいて悔い改めて回心するのです。悔い改めはめぐみです。神の前で泣くことができる人はゆるしをいただきます。神さまがなぐさめてくださいます。神に罪のゆるしをいただいた人が本当のいみで柔和でへりくだることができます。そしてその人たちは地を受け継ぐのです。それは居場所を見出すということです。人間の苦しみの一つは居場所がないということです。ホームレスの人だけではなく、家があっても家族の関係がバラバラで居場所がない人、非正規雇用の人などです。
神さまのみ旨を果たしていきたいといううえ渇きがある人はしあわせです。神さまのみ旨,神の義とはなんでしょう。本当の正しさは律法を守ることも正しさですが律法をこえる正しさとはなんでしょう。それはあわれみ深さしかありません。ヘブライ語で「義」はセダカといってその中にはもともとあわれみが入っています。
神の義を果そうとすると「あわれみふかく生き」「こころ清く生き」「平和を実現するように」生きなければなりません。この3つをどう生きるか。それはむずかしいことです。あわれみ深くいきると損ばかりすることになります。いろいろな欲望、執着、とらわれがあってこころ清くはむずかしいです。ガザやウクライナなど世界のこともありますが自分のまわりでどう平和を実現していくことも課題です。この3つはむずかしいけどイエスは自分がいるから大丈夫だとはげまして下さっています。自分が信者としてどうこれをいきていくかですが「8つめの幸い」はきわめつきです。「義のために迫害されている人は幸い」とあります。神のみ旨を果していくならば必ず非難されることがあるけどイエスは私がいるから大丈夫、前を向いていきましょうと言ってくさっています。
今書かれている「幸い」に自分はどれをいわれているか。今あるチャレンジ、困難に自分はどういうことがよびかけられているかを考えてみましょう。それは回心なのか考え方を変えた方がいいのか強い心をもつことなのか考えてみましょう。
8つの幸いを生きている人が「地の塩」「世の光」となるのです。
第一講話の最後に「世の光」「地の塩」について話しましたが午後は「光」について角度を変えて話したいと思います。
マタイ25.1~13に10人の乙女のたとえ話が書いてあります。マタイには5つの説教集がありこれは最後の説教集に書いてあります。ここには世の終わりについての心構えが書いてあります。ひとつ前の24章には世の終わりの前の混乱について書かれています。そして25章では世の終わりを迎えるにあたっての心構えが書かれています。
コロナになって特にここを読むようになりました。コロナは人類をおそった大きな苦難でした。ルカには世の終わりには疫病がはやると書かれています。ノストラダムスなどは世の終わりの危機のみがかかれていますが聖書には心構えが書かれています。世の終わりは人類全体のこともありますが私たち一人ひとりのこと、小さな終末、人生の転換点のことでもあります。その時にわたしたちはどうしたらいいのか。
教会全体も危機に面しています。高齢化、召し出しの減少、そのなかでどうすればいいのか。個人としても社会としても教会としても危機を考えてもよいのです。
花婿はイエスさまの再臨です。象徴的なのは「夜になった」ということです。夜は神さま不在の時間帯をあらわしています。それは暗さ、困難をあらわし、その中でわたしたちはどうすればいいのでしょうか。そして灯をともせるか、日頃、油を用意していたかどうか問われています。夜に灯をともすのは必要ですが難しいのは夜に負けてしまうからです。夜になったらじっとしてしまって灯をともすのは難しくなります。つらい時苦しい時こそ灯をともすのは難しいのです。そのことを一番感じたのは東日本大震災の時です。私はその時東京にいて電車がとまって鎌倉に帰ることができませんでした。津波や原発のことでかなり危機的な状況になっていました。その時自分のこころの状態はどうなっていたかというと力がでなくなっていました。当時天皇がビデオメッセージをだされたのを見て内容は覚えていないのですがその姿にショックをおぼえました。天皇は危機の中で灯をともしたのです。彼はかしこい乙女で自分はおろかな乙女だとはっきりわかりそれが回心となりました。避難所などでは人々は力が出ない状態になりますがそのなかでも灯をともすことのできる人がいます。私たちがかしこい乙女になって灯をともすことができるのです。東日本大震災の時は日本のカトリック教会は灯をともすことができたのではと思います。阪神大震災の経験もあってノウハウ(油)がたまっていました。
しかしコロナのときはむずかしく、きびしかったです。コロナの時ロドニー・スタークの本を読んで教会の歴史をふりかえりました。彼は初代教会のとき疫病がはやったからキリスト教信者が増えたと書いています。異教徒の医者は逃げましたが、クリスチャンは病気の人を助けました。もちろん死んだ人もいますがクリスチャンが看病した人は回復してその生存率は高かったそうです。それで疫病がはやる度に信者が増えたのです。そのころのクリスチャンは殉教の時代に生きていてこの世の命に対する執着がちがっていたのです。彼らはかしこい乙女でした。私たちが危機の時に灯をともす側にたつか暗い暗いといってとどまるか問われています。私たちが今までどういう夜を経験したか、その時にだれが灯をともせたか、できなかったらなぜか、ふりかえってみましょう。
日頃油を用意しているか、油は何なのか黙想してみましょう。一人一人問われているのは油を用意している人か用意していない人か、灯をともす人かともさない人かです。何もしなかった人が評価されないのです。つぎの14節から有名なタラントンの話が書かれています。この世の終わりの危機の中で神さまから与えられているものをいかしたかどうか問われています。誰が評価されていないかといえば何もしていない人が評価されていないのです。前向きかどうかで評価されています。何もできなかった人はなぜできなかったか、それは「おそろしかった」からです。危機的な中でついつい自分が被害者の立場にたってしまいますがそうではなく何かをする側に立てるかどうかで大きな差がでます。たとえ小さくても自分なりの灯を持っていないといけないのです。
この後有名なマタイ25:31~46で最後の審判が書かれています。この世の終わりが近づいているとき、ここにかかれていることができるかどうか。10人の乙女のたとえも、タラントンのたとえもそしてこの最後の審判もみんな何もしなかった人が裁かれています。油を用意しなかった人、タラントンを増やさなかった人、小さな人々を助けなかった人が裁かれています。世の終わりの危機が近づいているときにこのことができるかどうかです。危機になればなるほど何かするのは相当なチャレンジです。危機にもいろいろありますが死もいつおとづれるかわかりません。その中でこの3つのたとえ話をどう実践していけばいいのか。一人一人への問いです。
仏教的には閻魔帳に今までした悪いことが書かれていてそれで裁かれますがイエスさまはしなかったことで裁かれます。基準がちがうのです。何でこの基準のことが書かれているかといえば今それを大事にしなさいということで書かれています。今それをするために書かれています。
年をとったらいろいろいいわけをしたくなります。先輩の神父で聖人のような神父がいました。彼は元気なときは教会に来ない信者の家を歩いて訪問していましたが、それができなくなってロヨラハウスに入ると同じハウスにいる神父の部屋を訪問してはげますようになりました。そして自分ができることを探してしていましたがいよいよ目も見えなくなったら最後は一日中ロザリオの祈りをしていました。その神父を見ているとどこに行っても灯をともしていました。どのような状況でも何もできないということはありません。
自分に与えられている危機の中でどういう油を用意するか、灯をともすか。人の評価は関係ありません。そこで何ができるか、死ぬまで何ができるか考えましょう。体が動くか動かないかは関係ありません。たとえ話は一人ひとりのために話されているのですから、自分が何を用意するかを黙想してみましょう。