-マタイ 11:28-

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに 来なさい。
休ませてあげよう

-中村神父-

 慌ただしい年の瀬を過ごしているうちに年が明け、2023年を迎えました。昨年を振り返ってみると、先の2年間と同様に、コロナウィルスの脅威に振り回された1年であったと言えるでしょう。誰もが、何を為すにも感染対策を念頭に置いて計画を立てなければならず、泣く泣く中止にせざるを得なかった行事や集いも少なくなかったのではないでしょうか。今年こそはウィルスの問題が解決して、以前と同じような生活に戻れることを願っていますが、そのような希望すら打ち消されるような状況に嘆息をついているのが現状です。わたしたちはどのようにして、この時代を乗り越えていけば良いのでしょうか。

 3世紀に、現在のリビア地方で栄えたカルタゴの地で活躍した、殉教者聖チプリアーノという聖人がいました。彼は35歳でキリスト教の洗礼を受け、短期間のうちに司教に選任されてカルタゴ地方の教会を導く務めを任されました。厳しい迫害の嵐が吹き荒れた時代です。彼の任期中には、デキウス帝の迫害(250年)とヴァレリアヌス帝による迫害(257~258年)が猛威を振るい、多くの人々がそれに耐えることができずに背教していきました。しかし、迫害が静まると彼らは教会に復帰することを切望したのです。彼らの復帰を認めるか否かについて、教会は容認派と拒絶派との2つのグループに分かれて、互いに対立し話し合いは紛糾しました。聖チプリアーノ司教の基本的な姿勢は厳格なものでしたが、罪を告白し、教会が定めた然るべき償いを果たすことで、彼らに教会への復帰を認めたのです。

 こうした一連の迫害の経験を踏まえて、彼は教書の中で「教会の外に救いなし」という言葉を残しました。この言葉は後に切り取られて独り歩きすることになり、カトリック教会の傲慢な姿勢の象徴として数多くの批判を受けることとなりました。しかし彼は、他の宗教に属する者や、キリストに出会うことなく生涯を終えた人に対して語ったのではなく、一度イエス・キリストに帰依した者が教会の外で救いを探し求めても、そこには真の救いに至る道は存在しない、という意味で、この言葉を残したのです。彼は迫害の渦中で混乱した教会を司教として福音の教えに照らして力強く導き、精力的に働き続けました。その最中に、ローマ総督から遣わされた兵士によって捕らえられ、尋問を受けた後に殉教しました。

 イエス・キリストは自分を頼って各地からやってきた人々を前にして、次の言葉を残しています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。聖チプリアーノ司教は、教会に戻りたいという切なる思いを抱く人々に対して、この聖句を思い起こしていたのではないでしょうか。

 教会はイエス・キリストの体にたとえられます。混迷した希望の見えない現代に生きるわたしたちも、イエス様のこの言葉に信頼を置き、神の国での永遠の救いを目指して力強く歩み続けていきたいものです。


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