2024年11月 ▶︎朗読を聞く 

(私パウロは)キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。

-コロサイの信徒への手紙、1章24節-

-来住神父-

キリスト教は、 2000年前にイエス・キリストという人物が 十字架上で死んだという出来事が、 人類の運命に決定的な影響を与えたと考える宗教です。 でも、そんなことばかり言っているわけではありません。普段はもっと実生活に密着したことを言っています。しかし、「イエス・キリストの苦しみと死」という出来事を抜きにしては、この宗教はないのです。

そして、私たちの 苦しみと死もまた、イエスのそれとつながることによって、 大きな意義を持つと考える 宗教です。 ひどく ネガティブな教えだと考える人もあるでしょう。

しかし、私たちは苦しみと死には意義があることを直観しているのではないでしょうか。 

もちろん、個々の苦しみは避けられるものなら 避けたいと思っています。 しかし、 苦しみの全くない人生が良い人生と言い切れるでしょうか。全てがうまくいき、 家族も学校も友人も仕事も順調で、 小さな波乱はあっても、ハッピーエンドで終わる。そんな人生は悪くもないが、それなら生きても生きなくても同じだ 。そう感じている自分もいるのではないでしょうか。

 

自分の人生の苦しみに意味があるかもしれないと悟るチャンスの一つは、自分の人生の後悔の中にあるでしょう。 私たちは自分の人生をかっこよくまとめたいものです。晩年が近づくとこう言いたくなります。

「私は 精一杯生きてきた。 悪いことをしなかったとは言わない。 しかし、私なりに一生懸命生きてきたのだ」。 

しかし、本当にそうでしょうか。 自分なりに精一杯生きる中で、多くの人を傷つけ、苦しめてきたということを本当は知っているのではないでしょうか。これは、特に家族について言えることです。 多くの場合、私たちは彼らに償う 方法はないのです 。もうこの世を去っているかもしれないし、生きていたとしても謝罪することが良いのかどうかわからない。 「自分なりに 一生懸命生きてきた」と 言いたくなるのは、償う方法が ないことを 知っているからかもしれません。

もし今の自分に降りかかっている避けがたい苦しみを受けとめることが、 人類のために苦しんだキリストの苦しみにつながっていると考えることができるならばどうでしょう。 私たちは、かつて自分が苦しめた人々に償いがいくらかできることになります。 すぐには納得できない考え方かもしれませんが、すぐにナンセンスと退けず、考えてみてください。


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