9月22日
マルコ9・30~37
「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
今日の福音では「このような子供の一人を受け入れる」ということばが特に心にひびきました。このような子供というのは文字通り小さな子供という意味もあると思いますが弱く見捨てられがちな人のこともさすのだと思います。
一人の参加者の方が、「教会に最近来られていない方に手紙を書いたら大分遅れて返事がきてとても嬉しかった。」と話されすごいなと思いました。私は何かしているかしら?と考えたら何もしていないと反省しました。小さな弱い人がすぐ近くにいても気づいていなかったのではと思いました。
あるスクールカウンセラーの活動をテレビで見ましたが、子供の悩みを聞いてあげていて解決になるようなことをいうと離れていくことがあると言われました。徹底的によりそうことが大切だと言われたことがこころに残りました。
小さな一人を受け入れるということは徹底的に寄り添うことかもしれません。そしてそれが「すべての人の後になりすべての人に仕える者になりなさい」と通じるのかもしれないと思いました。
わたしを受け入れて下さったキリストのみこころに少しでも近づくことができますように!
7月28日
ヨハネ6・1~15
大人の日曜学校でその日の福音を分かち合うとき、こころに響いたことばや文を発表します。いつもいくつかの個所がでてきますが今回は「ここ」という個所がでてきませんでした。ここはイエスさまが五つのパンと二匹の魚を多くの人々にわけあたえるところです。ひとつのことば、文というより情景としてこころに残る個所です。イエスさまがフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」とたずねられます。フィリポは「二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答え、アンデレは少年のもっているたべものでは何の役にも立たないと言います。フィリポとアンデレの言っていることはまるで日頃私が言っていることのように聞こえます。「イエスさま、わたしにはそんなことはとても無理です」と。
わかちあいの中で先日の黙想会の話が出ました。その黙想会で神父様はマタイ25章の話をされて私たちはしなかったことで裁かれると言われました。たとえ役に立たないように見える少しのパンと魚であっても差し出すことが大切だと思いました。ある方がこんな話をしてくださいました。友達何人かとあっているときに近くで知らない人が倒れて思わず「大丈夫ですか」と声をかけたが他の人たちに関わらないようにいわれた。声をかけることは小さなことかもしれません。今の世の中では人と関わることは勇気がいるときもありますが、こんな小さなことから前に進むことができたらと思います。
イエスさまは少年のパンを「感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」とあります。イエスさまがそのパンを本当に大切にされたことが感じられます。わたしが持っているものはわずかですがそれを喜んで差し出すことができる信仰をもてますように。
6月23日
「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」 マルコ4・40
この日、私たちは、マルコ4・35~41をわかちあいました。そしてほとんどの人が「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(マルコ4・40)というイエスのことばがこころに残ったと言いました。日々の生活の中で私たちは、「激しい突風」や「大波」にばかり気がとられ翻弄されて同じ舟にイエスが乗っておられることさえ忘れています。ただ私たちキリスト者は、おくればせながらでもイエスがいっしょにいてくださることを思い出し「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」とうったえることができるのです。
イエスがすぐそこにいらっしゃるのに舟に自分ひとりでいると思い絶望している人がたくさんいると思います。
また今の世界ウクライナやガザなどの悲惨な状況をみて本当に私たちはどうしたらいいのだろうという無力感におそわれます。聖書と典礼の解説に「悪の領域である海はイエスによって治められる。」とあります。私たちの小さな舟にもこの世界の大きな舟にもイエスが乗っておられることを忘れず、イエスが治めてくだることを祈りたいと思います。
4月28日
「わたしにつながっていなさい」 ヨハネ15・4
大人の日曜学校では、当日のミサの福音のわかちあいをしています。どのようにしているか少しご紹介します。まず福音の個所を一人がゆっくり朗読します。それを聞いてみなさんがそれぞれこころに響いた個所を2,3回読みますが強制ではないので読まなくてもかまいません。同じ個所を選ぶ方もあれば「ああこの人はここが響いたのだ」と興味をもつこともあります。そのあともう一度福音の朗読を聞いてわかちあいをします。わかちあいと言うと少し抵抗を感じられる方もいるようですが自由に話し合うので時々脱線しますが多くの気づきがあります。わたしは今回「わたしにつながっていなさい」というイエスさまのことばがこころに響きました。つながっているつもりがいつの間にか自分中心になっていたといわれた方のことばが心に残りました。この箇所でイエスさまがわたしたちに命じられていることは「つながる」ことだけなのに本当にむずかしいとおもいました。祈りの大切さを話してくださった方もいました。教会から離れている友のことでこころを痛めている方もいました。わかちあいをしていると知らないその方ともつながりを感じます。
キリストとつながっていれば苦しみ悩んでいる人ともつながることができるのではと思いました。わかちあいは、わたしにとっていろいろな発見、気づきを与えてくれる大切な場です。
小さな集まりですが一度のぞいてみませんか。お待ちしています。
3月24日 (マルコ15・1-39)
『十字架につけろ。』(マルコ15・13)
3月24日に大人の日曜学校を行いました。
今回はマルコによる福音(マルコ11・1-10)をテーマとして始めましたが、話が盛り上がってくるうちに、気が付けば福音箇所の(マルコ15・1-39)についての話が中心となり、皆さん熱く語られる事となりました。この箇所ではつい三日前まではイエス様を王として迎え入れられたエルサレムの人々が、この短期間の間で何故イエス様を『十字架につけろ。』(マルコ15・13)とそこまで憎悪を燃え上がらせたのかという疑問を皆さん持っておられました。そして、この疑問に対しては、ミサ中の説教で、中村神父様が説かれたように、エルサレムの人々はイエス様をこの世での王国を築いてくれる王として大変期待していたが、目の前にいるボロボロにされたイエス様を見て、大きな失望を受けたことが理由という事で納得、皆当時のエルサレムの人々の気持ちに寄り添って理解する事に努めました。
ただ、単なる失望がここまで憎悪の衆と化したことに対しては、『祭司長たちがバラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。』(マルコ15・11)と書かれているように、悪意を持った第三者の扇動が群衆の憎しみに火をつけたという事実について、群衆個人の失望以上に注意しなければならない箇所と思いました。
私はこの扇動の悪意の中に悪魔が棲んでおり、次々と群衆の心に入り込んでいった結果、起きた事と解釈しています。
この箇所からわかる事は、人間というものは如何に弱いものか、希望を失い扇動されるだけでいとも簡単に悪事が行えてしまいます。
今の社会では、テレビなどで気付かないうちに真実を隠され、扇動され、善を悪に、悪を善に、平気な顔をして歪められている事が多々あると実感しています。
私たちは神でないので、本当の真実にはなかなか辿り着けない存在だという事を心に留めながら、日々過ごしていきたいと思いました。
1月28日 マルコ1・21―28
「権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言う事を聴く」(マルコ1・27)
今日のみことばを振り返るにあたり、当時の人々はそれまでは律法や旧約の解説を教えとして聴かされていたところに、突然イエス様が自身の権威ある言葉として説かれたことに本当に驚きを持って聴き入ったことでしょうと、当時の人々の心の動きを皆さんで分かち合いました。
また、この箇所は悪霊が登場する日常からは少し離れた場面ではありますが、皆さんそれぞれ日々苦労されている身近な人間関係や自分自身の中の悪意などに対し、イエス様が「黙れ。この人から出ていけ」(マルコ1・25)とそれぞれの悪霊を追い出してくだされば・・・、という気持ちになることで、とても身近なこととして、このみことばに引き寄せられていきました。
御受難会にも素晴らしいエクソシストの資格を持たれた神父様がおられたと教えて頂きました。※注1.そう言った意味では悪霊・悪魔は決して映画の中だけの非日常なものではなく、現実にあるものだという事も再認識させられました。
それにしても「正体はわかっている。神の聖者だ。」(マルコ1・24)と、追い出される悪霊はすぐにイエス様の正体に気付いたのに、愛されている私たち人間の方がイエス様の正体に気付くことが出来ないというのはなんと悲しいことかと思いました。
※注1.ご受難会のカンディド・アマンティーニ神父様
「10人の聖なる人々」(学研プラス)という書籍で紹介されています。
11月19日 マタイ25・14-30
この福音個所は今まで少々負担に感じるところであった。ましてや僕に預ける1タラントンが20年分の賃金と知って、正直「とんでもない!そんなに預けないでください」と思った。そんな少し重い気持ちでこの集まりに参加した。
ある方がこんなことをはなしてくださった。ルカ19章にこのマタイとよく似たムナのはなしがある。主人は「悪い僕よ、わたしはおまえのその言葉によって、お前を裁く」と告げる。主人は僕がお金を増やさなかったのをせめているのではなく僕が主人を「厳しい方ですから、怖かったのです」というそのことばで裁くといわれている。主人は、信頼されていないことで僕を裁いたのではないかと言われた。なるほどと思った。
たいしたタレント、才能もないのにどうすればいいのだろうとおもっていたが神様はわたしを信頼して多くのものを与えてくださっていた。2倍3倍と考えるのではなく主を信頼して進んでいくことが大切なんだと気づいた。
その方は、「イエスよ、あなたに信頼します」とかいてあるカードを見せてくださったが、わたしも同じカードを持っていたのにその言葉に気が付いていなかった。だいじなことに気づかされたわかちあいだった。
「イエスよ、あなたに信頼します」は、わたしの大切ないのりとなった。
10月29日 マタイ22・37-39
「あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい。」
10月29日(年間第30主日)、二ヶ月ぶりに開催された大人の日曜学校では、律法の中で最も重要な掟についてイエス様が語った箇所について語り合いました。
たった二つの掟ですが、それでも参加者の皆さんそれぞれの感じ方、受け止め方が違う事にあらためて自分の視野の狭さを感じるとともに、ほかの方の意見を理解し耳を傾けることは、「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22・39)に通ずる部分もあるなと、自分の意見にとらわれ傾聴出来ない自分に恥ずかしさを感じながらも、皆さんの思いと笑顔を分かち合うことが出来ました。
最近『神に愛されている』ということについて考える事がよくあります。
私たちは神に愛されているということについて言葉としては知っていますが、本当に実感しているのでしょうか?
このふたつの『・・・愛しなさい』(マタイ22・37,39)という愛の掟が実行出来ず、「主が自分を愛するように強制している」、「隣人を愛するなんて無理。」と、心が感じてしまうときは、『神に愛されている』ことを見失っている時なのではないでしょうか?
『神から愛されている』と実感出来ているときは、この二つの『・・・愛しなさい』(マタイ22・37,39)を受け入れる事ができるときだと思い、また、神から愛されているという喜びこそが、自分の心に愛を満ち溢れさせ、この二つの愛の掟を実行させる、溢れる原動力になるのだと思います。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いをつくし」(マタイ22・37)というみことばは、私たちへの掟の言葉となる前に、本当は神がどのように私たちを愛して下さっているかを説明しているみことばであり、イエス様がこの二つの愛の掟を示して下さったことこそが、父である神が私たちをこのように愛しているという証であると受け取ると、自分の心の杯に神の愛が満ち溢れてくるような気持ちになります。
日ごとの人との交わりの中で、神から愛されていることを思い出し、自分のエゴに捉われず、神の器(無私)となって、この溢れる愛で隣人を愛することが出来ますように。
7月23日 マタイ13・30
「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」
今回の大人の日曜学校は年間第16主日ミサの福音振り返りを皆で分かち合いましたが、気がつけば、集まった皆さんの身近に生えた毒麦との交わりの中での苦労話を熱く語り合い分かち合う場となりました。(皆さま、身近の方を毒麦と称してしまいお詫びいたします。)
皆さんのお話を聞いているうちに、それぞれ毒麦との間のご苦労を体験されることによって、皆さんが少なからずそこに意味を見つけられ、日ごとの糧として受け入れられている事に気づかされました。
きっとその糧が、たとえ話の『からし種』や『パン種』のように、その方たちそれぞれの心の中の天の国を成長したり膨らませたりさせていくのだろうと思うと、「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」(マタイ13・30)と言われたのは、「麦まで一緒に抜くかもしれない」(マタイ13・29)という理由だけでなく、毒麦が良い麦をたくましく育てる役割を秘めていることも、神様はよくご存知だったからではないかと確信めいた気持ちになりました。
そう考えると『毒麦』とは、迷惑がったり嫌ったりするだけの存在ではなく、私たちの心と天の国にとって必要な存在に思えてきました。
敵を愛しなさいと仰せられたイエス様と少しだけ分かち合えたような気がして嬉しくなりました。
身近な毒麦を愛することは、イエス様の道に近づくことになるのかもしれませんね。
神に感謝。
6月25日 マタイ10・26-33
「恐れるな」
ここでイエス様は何度も「恐れるな」と私たちに言われます。
毎日のことをふりかえるといろいろな「恐れ」にとらわれ振り回されている自分に気が付きます。世界でおこってる様々な恐ろしい出来事、将来の不安などでこころが休まるときがありません。それなのに「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」といわれているのにわたしも世の中の大半の人もそのことを忘れて自分勝手に生きています。
雀にさえも目をかけ、わたしの髪の毛一本まで数えてくださる神がいらっしゃるのに信頼しきれていないわたしがいます。
今回の集まりは4人しか集まれませんでしたがお互いの弱さを出しあい福音を分かち合う大切な時間となりました。「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。」これはどういうことなのだろうと考えています。本当はいつも考えていなければならないのかもしれませんが、大人の日曜学校があった週はその時の福音を思い出させてくれてありがたいと思います。
5月28日 ヨハネ20・19-23
「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす。」
今日の福音の振り返りで、このイエス様の御言葉のとおり、イエス様がわたしたちを平和があるようにと遣わせて下さり教会が誕生し、使徒たちはそこから世界に向かって布教をはじめ、今では世界中に教会があります。
なのに、世界を見渡せば恐ろしいニュースばかり。終わらない戦争、無慈悲な殺人など・・。そのニュースは孤独や人の痛みを知らないところから起きています。
相手の平和を祈る気持ちがあればどれだけ世界の人が救われる事か。イエス様の思いが世界中に繋がっていない!悔しい気持ちで一杯になりました。
暗いニュースが多い中で「あなたがたに平和があるように。」(ヨハネ20・19と21)とイエス様がこの短い福音で二度も唱えておられることに強いメッセージを感じずにはいられませんでした。
「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。」(ヨハネ20・23)わかっていても出来ない!という参加者の方の心の叫びにみんな共感しました。人は皆弱いものですものね。
そのような時私達はイエス様のお力を借りて自分の中でイエス様が働かれるようお祈りすることが大切だと思いました。
この季節、庭に咲く薔薇の花々も私たちの平和を祈って、天使のように香り咲いてくれているように思えます。
聖霊降臨の主日・そして教会の誕生日おめでとうございます。
主の平和がありますように。
神に感謝。
4月23日 ルカ24・13-35
『イエス御自身が近づいて来て 一緒に歩き始められた。』
この日の大人の日曜学校は、復活されたイエス様と気づかず、一緒に歩く弟子たちの箇所について皆で分かちあいを行いました。
それまではイエス様の奇跡を見て信じる人が大半でしたが、この箇所の出来ごとは、預言者の言葉や聖書のみ言葉によって、見えないものも信じる『教会の時代』が始まったことを、私たちに示してくださっていますね。
「イエス様がいつもそばにいてくださる事を強く感じる。」
「『物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち』(ルカ24・25)と弟子たちに言われたイエス様の言葉は自分に言われてる気がした。」
「死から復活されたイエス様がこんなに元気になられて本当に良かったと心が休まった」
など、この箇所のみなさんの感想は、特に思い入れが強く、いつもより熱く語られたのが印象に残りました。
『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』(ルカ24・32)
この弟子たちの姿は現代の私たち信徒の姿そのものですね。
この日集まった私たちも、この箇所を語り合うことで、この弟子たちほどではありませんが、同じように心が燃えたように思えました。
燃える心こそが信徒の証(あかし)ではないでしょうか。
イエス様は今、目には見えませんが、み言葉となって、パンとなって私たちに食べられ、いつも私たちのそばにおられます。
「いつも私たちのそばにおられるイエス様、ほんとうにありがとうございます。」
そう思えるひと時を、ともに過ごしともに分かちあうことが出来ました。
神に感謝。