2025-3-23 四旬節黙想会『四旬節の三つの道』
2025年3月23日(日)四旬節第三主日、晴天に恵まれたカトリック池田教会では、ジョヴァンニ・デリア神父様(尼崎教会)のご指導の下、四旬節黙想会が行われました。ジョヴァンニ神父様は身近な方の話から聖書の物語まで、いろんな方のお話を紹介下さる中で、四旬節の私たちの過ごし方を、直接心に響かせてくださる講話となりました。
第一講話は、私たちが日常では羨むほどの成功を手に入れた神父様の特別なクラスメイトの話から始まりました。しかし手に入れたいものを全て手に入れながらも交通事故で長期入院となってしまいましたが、その期間に「全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の得があろうか」(マルコ8章36節)という聖書の言葉に出会い、回心が起こり、奥さんと相談しお金儲けの会社を売り国際ボランティアを始めましたが、ボランティアを始めるきっかけとなった交通事故が起きたのは、クラスメイトの責任では無いことから、『回心をする為にその日が来た』ということに深い意味を感じるお話でした。二つ目のお話は、ある人が新しいズボンを買いましたが、裾が長すぎ自分では直すことが出来ないので、奥さんや娘さんそしてお祖母ちゃんにまで頼んだけれど、三人とも最初は言い訳をして断ったものの、後から回心し机の上に置いてあったズボンの裾を切りましたが、三人とも切ったので今度はズボンの裾が短くなりすぎ半ズボンのようになってしまった(笑)というお話でした。回心を先送りすると失うものがあることを、裾を切りすぎたズボンを想像しながら感じるお話でした。
第二講話では預言者ホセアが『愛されていながら浮気をする奴隷の女性を愛し続ける』ことと、他の神々の方を向いていてもイスラエル(人間)を愛する主について、四旬節のイメージとしてふさわしいこと。人間は神で無くちりであることを理解することや、回心して福音を信じる『灰の水曜日』はとても意味深いことを説いてくださいました。
次に四旬節の三つの技・行いである『施し』『祈り』『断食』についてもお話を頂きました。
『施し』では「テーブルの上に残ったパンは、飢えた人のパンです」など、カイサリアの聖バシレイオスの言葉に驚きました。この言葉は回心の心を持って接しないと決して理解が出来ないほど尊い言葉だと感じました。また、近所のトウモロコシの話では施しがいかに良い結果をもたらすかをとても身近に感じることが出来ました。
『祈り』ではエンプティー・チェアーの物語で老人が友人から受けた「祈りとはイエスと対話する事だ」という説明がとても腑に落ちました。主はいつもそばにいて下さる。でも祈らないと、そのことを実感出来ないという事を深く感じることが出来ました。
『断食』では、食べる行為ではないが広義で『節制』も含まれる。この50年間での日本の殺人事件の数は、激減しているにも関わらずテレビなどで毎日のようにニュースを流されると、知らないうちに増えているように思いこんでしまうことから、見ること・知ることの節制を行い、知らないうちに影響を受けないようにする大切な機会でもあるとあらためて思い知らされました。
最後にマルティン・ブーバーの言葉も戒めの言葉として心に響きました。
「人間の最大の過ちは、犯した罪ではない。誘惑は強力であり、人間は弱い。人間最大の罪は、望めば一瞬で回心出来るのに、そうしないことである。」
『施し』では「テーブルの上に残ったパンは、飢えた人のパンです」など、カイサリアの聖バシレイオスの言葉に驚きました。この言葉は回心の心を持って接しないと決して理解が出来ないほど尊い言葉だと感じました。また、近所のトウモロコシの話では施しがいかに良い結果をもたらすかをとても身近に感じることが出来ました。
『祈り』ではエンプティー・チェアーの物語で老人が友人から受けた「祈りとはイエスと対話する事だ」という説明がとても腑に落ちました。主はいつもそばにいて下さる。でも祈らないと、そのことを実感出来ないという事を深く感じることが出来ました。
『断食』では、食べる行為ではないが広義で『節制』も含まれる。この50年間での日本の殺人事件の数は、激減しているにも関わらずテレビなどで毎日のようにニュースを流されると、知らないうちに増えているように思いこんでしまうことから、見ること・知ることの節制を行い、知らないうちに影響を受けないようにする大切な機会でもあるとあらためて思い知らされました。
最後にマルティン・ブーバーの言葉も戒めの言葉として心に響きました。
「人間の最大の過ちは、犯した罪ではない。誘惑は強力であり、人間は弱い。人間最大の罪は、望めば一瞬で回心出来るのに、そうしないことである。」
四旬節の三つの技で自分の心が神さまに帰ることが出来ますように。
ジョヴァンニ神父様、有難うございました。
(研修委員会)
