-マタイ 25:13-
目を覚ましていなさい。あなた方は、その日、その時を知らないからである
-中村神父-
中世の時代に生まれたクラシック音楽は、わたしたちに心のやすらぎを与え、深く親しまれてきました。その始まりはグレゴリア聖歌に代表される教会音楽ですが、人々の生活が多様化されるにつれて、独立した音楽の分野として発展し、多くの作曲家が名曲を世に生み出しました。なかでも中世バロック音楽の代表者の一人である、ヨハン・セバスティアン・バッハは、ルター派の教会でオルガニスト兼作曲家として活躍し、彼の手による幾つもの名曲は現代でも多くの人に親しまれています。
なかでもカンタータ第140番は、マタイ福音書25章に描かれる「十人のおとめ」のたとえ話をモティーフにし、実際のミサ典礼で演奏されたものです。全7曲で構成されるこのカンタータには、三つのコラールが織り込まれ、特に第一曲目の「目覚めよと、物見らの呼ぶ声あり」の美しく調和のとれたコーラスと、第四曲目の「シオンは物見らの歌うのを聴く」のテノールの歌声は、多くの人々を魅了する名曲として高い評価を受けています。
曲調はとても明るく、物見たちが乙女たちに、花婿であるイエスが来られるから目を覚ましなさいと呼び掛ける声が響き、花婿の到着に心躍らせる乙女たちの姿が目に映るようです。主イエスの再臨の喜びは、この楽曲の美しいメロディーのように現わされるのだと、聞き手にその情景を思い浮かべることを促しています。
しかしながら、マタイ福音書のたとえ話を紐解いてみると、状況が幾分異なっていることに気がつきます。このお話はイエス様が天の国について弟子たちに語ったたとえです。花婿の到着が遅れたため眠り込んでしまった十人の乙女たちは、二つのグループに分かれてしまいます。賢い五人の乙女たちは灯に用いる油を用意していましたが、愚かな五人の乙女たちはそれを怠っていました。彼女たちは真夜中に油を買いに行かざるを得ず、油を手に入れて戻った時には花婿は既に到着した後で、入り口の扉は無残にも閉められてしまったのです。主イエスは次のように締めくくります。「目を覚ましていなさい。あなた方はその日、その時を知らないからである」と。
この十人は、イエス様と天の国の到来のために、結婚せずに生涯を捧げる人生を歩みました。それは天に富を積む美徳なのですが、彼女たちは眠気に負けて全員眠り込んでしまいます。それでも花婿の到着の知らせを聞くと、目を覚ましてイエス様を迎える準備に入ります。しかし、五人の乙女たちには灯をともす「油」がありません。
この油とは何を指しているのでしょうか。マタイ福音書の24章から25章には、世の終わりについてのイエス様の説教がまとめられています。その終わりは最後の審判のたとえ話で、天国に迎えられる人々と入れてもらえない人々とが対比されています。前者は誰かに対して善い行いをした人々であり、後者はそれを怠った人々です。イエス様は言います。「これらのわたしの兄弟、しかも最も小さな者の一人にしたことは、わたしにしたのである」と。いざその時になって油を買いに走っても手遅れです。天の国に入るために必要な油は、わたしたちの日々の善い行いによって準備されるものなのです。
