2024年12月 ▶︎朗読を聞く 

あなたがたの肉体から 石の心を取り除き、肉の心を与える。

-エゼキエルの預言、36章26節-

-来住神父-

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「石の心」とは冷酷で頑な心、「肉の心」とは寛大で柔軟な心と言えるでしょう。「あの人も年を取ったせいか、 柔らかくなったね」と言われる人がいます。 しかし、年を取れば誰でも 柔らかくなるわけではありません。 より頑なになる老人もいます。「柔らかくなったね」と言われる人には、それなりの苦闘があったのです。

仏教のいわゆる四苦八苦の1つは 怨憎会苦 (おんぞうえく)です。 憎い人に会わねばならない苦しみですね。 たまにならいいけれども、しょっちゅう会わねばならないとなると、とても苦しい。 この人に会っていなければ、私の人生はもう少し楽しいものになっただったろう。そう思ってしまうような 知人が、誰にも、いつでも一人か二人はいるものです。

私はこの人が嫌いだという 感情を露骨に表現する人もいますが、少ないでしょう。ある人が不愉快だという感情をずっと心の中に抱くことは、 本人にとっても 苦しいからです。

大抵の人は、あの人が そのような言動をするには事情があるのだろうと解釈するように努力するでしょう。 「彼があの時、嫌な顔を私に向けたのは、私に対して思うところがあったのではなく、朝ごはんに変なものを食べてお腹が痛かったせいかもしれない」。「彼女がいつも、不愉快な言動をするのは、生育歴に傷があったのかもしれない」。

このような 努力は 私たちの 振る舞いを何かぎこちなくします。右の前輪の外れた 自動車を、運転者の技術によって真っ直ぐ走らせようと しているようなものです。

いかにぎこちないとしても、人の言動を良いように解釈しようとする努力自体は尊いものだと思います。 それは神様が人間に注がれる善い促しです。

しかし、とても疲れる。良いように思おうとしても、 もともと無理をしているので、 ぐんと引っ張ったゴム紐が元に戻るように、 嫌なやつだという思いに捕らわれてしまいます。 この行ったり来たりを繰り返していると、疲れてきます。また、自分の心の狭さに失望もします。

しかし、このようなぎこちなさ に耐えて交際していると、いつか、ふっと自由になれる時があります。 よく思おうと意識的に努力しなくても、 そんなに気にならなくなるのです。その人が実は極めて善い人であったということではありません。その人の言動が気になるのは、 それなりの理由が確かにあるのです。ただ、 もともと大した問題ではなかったと感じるのです。 そして、心のエネルギーを、 自分の思いを押さえつけることに使う必要がなくなり、 良いことのために使えるようになります。

キリスト教はこの内的変化を、 時の流れの自然な結果ではなく、自分の努力の成果でもなく、神様が自分の心に働きかけてくださったのだと考えます。 「石の心を取り除き、肉の心を与える」と言うと、まるで 外科手術、心臓移植のように聞こえますが、そうではありません。 石であった心が、そのままで肉の心にゆっくりと変わるのです。キリスト教では、これを「聖霊の働き」と言っています。


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