2025年6月 | ▶︎朗読を聞く |
体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。
-マタイ6章22~23節-
-来住神父-
「体のともし火は目である」とは、「目はサーチライトのようなものだ」ということです。つまり、サーチライトで照すような気持ちで、積極的に見なければ、 本当のことは見えてこないのです。
しかし、福音書のこの言葉はあまり注目されていません。それに続く「目が澄んでいれば」に引っ張られるのでしょう。
目は窓ガラスのようなものであるという考えがあります。きれいに拭き清められていれば、 外の世界を正しく写すことができるというのです。聖書の言葉には「目が澄んでいれば」とあるので、やはり同じことを言っていると思いがちです。
日本人には「明鏡止水」という言葉が親しまれています。明らかな鏡、じっと動かない水は対象を正しく写すことができる。こういう 自分になじみの深い考えに引っ張られて、「体のともし火は目である」という、新しい視点を与えてくれるかもしれない言葉を見失ってしまうのは残念なことです。
中国の古典に 、「男子三日会わざれば 刮目(かつもく)して見よ」 という言葉があります。刮目とは、目をクァッと見開くという意味です。 男子たる者の交際なら、しばらく会っていない男には、 何か進歩していることがあるかもしれないという気持ちで、目を見開いて見なさいという意味です。
中国の古典ですから、男子となっていますが、女子でも同じです。 「 女子三日会わざれば刮目して見よ」。
若い時の友だちに久しぶりに会って、「あいつ 何も変わってないな 」と苦笑 交じりに言うことがあります。 変わってないなというのは、 若い頃の弱点があまり変わってないということも含めてです。 これはドラマの一コマとしてなら良い場面ですが、旧友を見る態度としては申し分があります。
「あいつは 何も変わってないな」と 確認することによって、変わらない自分も肯定して、安心しようとしているのではないでしょうか。人間は変わらないというのも人生の真実ですが、 人間は進歩するものだというのも真実です。それを刮目して見ないことは、人を侮っているということです。
「人間は自分の見たいものを見る」という言葉があります。 自分の都合のいいように現実を見るので騙されるというのです。 これも確かに人生の真実です。
しかし、 積極的に見ようとしなければ、見えるはずのものを見えないというのも真実です。 否定的な面は見ようとしなくても見えます。
一方、人間の肯定的な面、旧友の進歩している面は、積極的に見ようとしなければ なかなか見えないものだと思います。 久しぶりに会う時には、クールに 目を細めて見るのではなく、文字通り「刮目して見る」ようにしたらどうでしょう。つまり、カッと目を見開くようにしたらどうでしょう。
目をサーチライトのようにして、人生の現実の肯定的な面を見るようにした方が良い人生が 送れるのではないでしょうか。
