2025年8月 ▶︎朗読を聞く 

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」

-マタイ7章1節-

-来住神父-

この戒めは、社会制度としての裁判の是非を言ったものではありません。 主に個人の関係、人に接する態度を言ったものです。また、他人を批評、あるいは批判してはならないとも言っていません。
「裁いてはならない」とは決めつけてはならない」と言い換えることができるでしょう。「人を決めつけてはならない。 あなたも人に決めつけられたくないなら。」

他人のことを批評的に、
あるいは 批判的にあれこれ言うことはよくないことでしょうか。 そういうことを好まない人は、それでいいと思います。 しかし、そういうことを好む人もそれでいいと思います。 人が人に出会った時は何らかの判断が生まれるもので、それは悪いことではないのです。 自分なりの判断を無理やり抑え込んで、 誰のことでも「あの人はいい人だ」と言い続けていると、社会の活力を殺すと思います。 健全な批評精神を養うことは 必要です。それを不用意に言ってまわることは避けるべきですが、 自分の判断を周囲と賢明に分かち合うことはよいことです。

聖書が避けなさいと言っているのは、自分の判断がその人の全てのように思うことです。

人を批評する目に自信のある人は、 ついそう思ってしまいます。 人物批評を好む人は皮肉な人が多いのですが、 その批評自体はだいたい正しいことが多いのです。 意地の悪さというものは、ある意味で、人の目を鋭くするものだからです。 あなたの弱点を最も鋭く指摘するのは、あなたを嫌っいる人です。 

しかし、自分の鑑定眼の鋭さに自信を持ちすぎると、 過ちに陥ります。 平凡な人に見えても、人間存在とは広大なものです。 自分の目に映っているものは、 その人のほんの一部に過ぎないのです。 広大な土地のたまたま一点を、解像度の高い双眼鏡で見て、これはこういう土地だと思い込むようなものです。

しかし、 人間は 自分の見たものが、「ほぼ全て」だと思い込むものです。自分に見えているものが、彼(彼女)の人のすべてだと断言する人はいないでしょう。しかし、「それが全部だとは言わないが、でもそういう人だよね」 と思っていることは多いのです。

このような決めつけを避ける一つの方法は、 自分が決めつけられた経験を 思い起こすことです。 福音書は「あなた方も裁かれないようにするためである」 と言っています。

自分の過去の一つの愚行が自分という人間を代表していると思われているらしいことに気付いて、悔しい思いをした人はいるでしょう。 「違うんだ、 本当の自分はもっと立派なんだ」と叫びたくても、 叫ぶ場がない。聞いてくれる人はいない。

そういう悔しい思いをした人は、自分も他人に対して同じ決めつけをしていないかと自らを省みるといいでしょう。その意味で、決めつけられた経験は恵みなのです。自分が決めつけられる経験をすることなしに、 人間とは自分の見えているより、はるかに深く広大なものだということを悟るのは難しいからです。


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