| 2025年12月 | ▶︎朗読を聞く |
私は逆らわず、 退かなかった。 打とうとする者には背中を任せ、 髭を抜こうとする者には頬を任せた。顔を隠さず、嘲りと唾を受けた
-イザヤの預言、50章5~6節-
-来住神父-
キリスト教の旧約聖書は、人間の苦しみの中で、「屈辱」という経験に強い光を当てています。辱しめを受けた経験は、人と分かち合うのが最も難しい経験です。「私には何でも話すことができる友人がいる」と誇る人がいますが、親しい友人でも、屈辱を受けた出来事を具体的に話すのはとても難しいでしょう。
私たちは、人と話す時には、 その会話の結果、 相手に自分がどういう人間として映るかを計算しています。 自分が値打ちのある人間として映るように微妙に調整しています。自分の失敗談を好んで話す人がいますが、どこか愉快なやつという印象になるように話しています。間違っても卑小な人間という印象にならないようにしています。 例えば、会社の朝礼で、上司から不成績をこっぴどく罵られたことを具体的に話すことはできない。同情はしてもらえても、自分が惨めな人間として同僚の脳裏に残るからです。
自分の苦しみを 分かち合いたい時に、 自分が見下され、蹂躙されたことは話しにくいものです。学校でのいじめを子どもが親に話さないのは、殴られたとか身体的被害が問題だけではありません。自分が、そういう扱いをしてもいい存在とされたことを親に知られたくないのです。 レッキとした被害者であるのに、 自分がそのように蹂躙されたことを自分の恥として感じるのです。 自分が悪いわけではないことは分かっているのですが、それでも 自尊感情は大きく傷つけられるのです。
自分に好意的な人、 愛情を持ってくれている人にも 知られたくないのです。 だから、「あなたは悪くない」「 あなたを傷つけた人が悪いのだ」と慰められても、この感情は消えないのです。
キリスト者にとっては、神ご自身がこの恥を取り去ってくださいます。
「私の目にあなたは値高く、尊い。私はあなたを愛する。」(イザヤ43.4)
「恐れるな、もはや恥を受けることはないから。うろたえるな、もはや辱しめられることはないから。若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな。」(イザヤ54.4)
「恐れるな」とは、屈辱をもたらすような出来事がもう起こらないという意味ではありません。私に屈辱を味わわせようとする人はまた現れるでしょう。しかし、神ご自身が私を「値打ちのある者」と宣言してくださるので、私の自尊感情は決して傷つけられることがないのです。
経験や感情を友人と分かち合うことによって、人は少しずつ癒されます。 しかし、 屈辱という体験は分かち合うことが難しく、 こういう仕方で癒されることが難しいのです。 分かち合うことができなければ、その感情や経験は体の中に閉じ込められます。屈辱を閉じ込めた結果は極めて有害なものになります。
人と分かち合うことが難しくても、ただ 神様が知ってくださって、その上で、「あなたは 値打ちのあるものだ」「あなたを愛している」と宣言されることによって救われることもあるでしょう。
