| 2026年2月 | ▶︎朗読を聞く |
見よ、主の言葉があった。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
-列王記(上)19章9節-
-来住神父-
キリスト教は、神が人間に質問する宗教です。 人間がいろいろ神に質問して、神が一生懸命に答えるだけの宗教ではありません。神が人間に一方的に教え諭すだけの宗教でもありません。神が人間に質問して、人間がその問いかけに答える宗教でもあります。
現代の社会では、神に質問すれば、できるかぎり懇切に答えることが期待されています。もちろん、 実際に答えるのは「神」ではなく、神父や牧師ですが。その解答の努力を書籍にしたものがたくさん出版されています。
しかし、人間がいつも神に対して面接官のような立場に立って、質問する、あるいは問い詰める態度に終始していては、キリスト教信仰の真髄は分かりません。悪の存在に関してはどう考えるか、 人の世になぜこれ程の苦痛があるのかという質問をして、 満足のいく答えが得られれば信じてもいいというスタンスでは、結局キリスト教信仰はわからないでしょう。神の質問に、人間が精一杯答えようとすることが必要です。
聖書には時々、神から人間への質問があります。掲げた聖書の章句は、預言者エリヤが悪辣な女王イゼベルに追われて、荒れ野を彷徨っているときに、神が投げ掛けられた質問です。あなたはここで何をしているのか? 私たちにも、「いったい、私はここで何をしているんだろう」と、自問する局面があります。人生で、自分の立つ地盤自体が揺らぐようなときです。それは宗教的な次元が立ち現れるときです。しかし、多くの場合、そのような神からの質問は一晩寝れば、「林間の焚き火の煙のように」どこか消え去っています。そして忘れた頃に、また甦って(よみがえって)来るのです。
現代日本には、質問に答えてあげようという親切が溢れています。自己啓発書は花盛りです。才気豊かな著者たちがあらゆる質問を想定して、それに答えようと励んでいます。この頃出版される本には、質問の形をとるタイトルが多いようです。最近、感心した本のタイトルは『なぜ人は締め切りを守れないのか』でした。企業の会社報のような小さなメディアでも、記事を書いた経験のある人なら、手に取ってみたくなるでしょう。自分が持っている質問に答えてくれるだけでなく、「何を質問するか」まで代わりに考えてくれるのです。AI技術の劇的な発展はこの傾向をますます加速させるでしょう。自分が答える必要のある質問は何かが曖昧になっていくでしょう。
そのような人間のとりあえずの興味を引くような質問ではなく、 聖書には時に、神からの人間への実存的な質問が投げ掛けられています。
根本的な質問は、旧約聖書の冒頭、創世記にあります。最初の夫婦、アダムとエバが神の顔を恐れて、身を隠していると、神が質問します。「あなたはどこにいるのか?」 (創世記3章9節)
あなたは自分なりに 一生懸命生きてきたと思っている。ある場合には、問題に 頑張って取り組み、ある場合には遣り過ごしてきた。時には、後ろめたいこともした。 しかし、自分なりに 一生懸命に生きてきた と思っている。 そのあなたは今、「どこにいるのか」。
