2024年5月 ▶︎朗読を聞く 

柔和な人は、幸いである。その人は地を受け継ぐ。

-マタイ5章5節-

-来住神父-

マタイ福音書には「 〇〇する人は幸いである」という章句が8つ並べられているところがあります。古くは「真福八端」と呼ばれてきました。キリスト教の示す幸いを端的に表した言葉 という意味でしょう。 その3番目が、「柔和な人は幸いである」 です。

「実るほどに頭を垂れる稲穂かな」という諺があります。偉くなったり、金持ちになっても、柔和、謙遜な態度を失わないことを優れた人格の表れとすることは、どの文化、どの宗教にもあります。 それだけに常識的で、 わざわざ言う必要もないように思われます。実は、「柔和な人は幸いである」という聖書の表現には、はっきりと言葉には表れていない含蓄があるのです。

「柔和な人」とは、元々の人柄が良くて柔和な人、あるいは修養を積んで柔和さを獲得した人のことではありません。境遇によって、「柔和にならざるを得なくなった」人という意味があります。つまり、貧困や大病、仕事の挫折などです。そういう経験を持つ人は、もはや肩で風を切って人生を押し渡ることができず、他人の顔色を気にして、人に頼らなければなりません。なぜ、聖書はそういう人こそ「幸いである」と言っているのでしょうか。

聖書は、柔和な人は立派であると言っているのではなく、「幸い」であると言っています。ざっくり言って、「運が良い」ということです。なぜ、柔和にならざるを得なくなった人は運が良いのでしょうか。現実を、これまでとは違った新しい角度で見るチャンスが与えられるからです。

現実を高いところ、つまり有利な地点から見ることには確かに利点があります。遠くまで広く、俯瞰的に見ることができるからです。一方、打ち倒されて、地に伏す者には、別の世界が見えます。石ころの間から頭を覗かせる雑草が、目のすぐ前にはっきりと見える。人間が共に生きるとは、地面に近いところから世界を見ることかも知れないのです。

これはチャンス、可能性です。必ず目が開かれるわけではありません。しかし、挫折しない人にはとても難しいことなのです。エクスポージャーといって、自分の実際の生活とは異なった経験をするプログラムがあります。しかし、実際にそういう境遇に陥るのとでは大きく違います。幸いな人は、意図しないのに、柔和に振るまわざるを得ない羽目に陥った人です。


フッター