2024年7月 ▶︎朗読を聞く 

キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。

-コリントの教会への第ニの手紙、5章20節-

-来住神父-

「神」という言葉にリアリティーを感じなくても、「和解」という言葉は刺さる人があるのではないでしょうか。 人間は、和解ができないために苦しむものであるからです。キリスト教に限らず、宗教の真髄は、和解をいかに達成するかにあるとも言えます。

キリスト者にとっては、 全ては神によって創造されたものです。神に起源を持っています。だから、神と和解するとは、世界と和解するということとほぼ同じです。

キリスト教的な言い方では、「世界」というのは、世界地図とか世界旅行といった地理的概念ではありません。自分を取り巻く「現実の総体」のことです。家族のような身近な現実も含むし、戦乱に悩むパレスチナ、ウクライナのような日常からは遠い現実も含みます。

例えば、自分の親は、神が造られた世界の一部です。そして、虐待とかではなくても、たいていの人にとって、自分の親は申し分のある存在です。子どもの頃、「どうして自分の父親(母親)はこうだろう」と嘆いた経験のある人は多いと思います。 大人になり、自分の経験が広くなるにつれて、 子供の頃は赦せない!と思っていた親の欠点、エキセントリックなところも、次第に赦せるようになることが多い。しかし、親への嫌悪感、疎隔感が長く続く人もあります。

和解という日本語は情緒的な面が強くて、涙を流して抱擁しあうというイメージがあります。むしろ、「肯定する」と言った方がいいかもしれません。「親として肯定する」と言えば、ハードルが低くなるのではないでしょうか。「この人が自分の親である」ことを肯定するのです。どうしても嫌なら孝行しなくてもいいけれど、この人が自分の親であることは事実として肯定するのです。 そこから関係が少し良い方向に向かうこともあるでしょう。

世界、自分と向き合う現実の総体を、いますぐ、全て肯定することなどできません。イエスもそういうことを望んでおられるのではないと思います。子どもたちが無慈悲に殺されていくパレスチナの現実を肯定するのは、誰にとっても難しいでしょう。 イエスと語り合いながら、自分の肯定できる現実を少しずつ増やしていくことです。

ロシアの作家ドストエフスキーは、「カラマーゾフの兄弟」の中で、何に対しても怒っているテロリストになりそうな少年に対して、主人公にこう言わせてます。

「全体としては人生を祝福しなさい。」


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