-ルカ 23:42-

イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。

-中村神父-

 皆さんは、自分の死について考えたことがあるでしょうか。死後の財産分与や部屋の整理について思い巡らし、具体的な準備に入られる人はおられることと思います。そうであっても、健やかに過ごせているならば、ほとんどの人は自分の死を意識しないものです。もし突如その時がやってきたとすれば、わたしたちはどのように自分の死を受け入れたらよいのでしょうか。

 2000年前のゴルゴダの丘で、イエス様と一緒に二人の強盗が十字架につけられました。彼らは自分の罪のゆえに刑罰に服していることに納得せず、死を受け入れようとはしませんでした。二人とも、イエス様を十字架につけた祭司長や律法学者たちに焚きつけられるかのように、イエス様を罵ったのです(マルコ15章32節)。

 ゴルゴダの丘は騒然とした雰囲気に包まれ、イエス様を罵る人々の声は収まることなく、罵詈雑言と嘲笑がその場を支配していました。人々のありとあらゆる悪態を一身に受け止めていたイエス様は、彼らを咎めず父なる神に次のように祈ったのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」しかしながら、それは人々の憎悪に一層火を点けることにしかなりませんでした。

 苦痛に耐えかねた二人のうちの一人が声を上げました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、その言葉を聞いたもう一人は、まったく異なる反応を見せたのです。彼は神の前に自分の非を認め、罪もないのに同じ刑罰を受けているイエス様に向かってこう言いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。イエス様の答えは簡潔なものでした。「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」。

 最初はイエス様を罵っていたこの人の上に、いったい何が起こったのでしょうか。おそらく彼は、自分の人生を振り返っていたのでしょう。神と人々に対して死に値する罪を犯してしまったことに気がつき、自分が置かれた状況を真摯に受け止めたのです。そして、人々の悪しき策略によって共に刑に服しているイエス様の深い信仰を目の当たりにして、一縷の望みを抱いたに違いありません。彼は直接的に救いを求めるのではなく、遜った態度をもって「わたしを思い出してください」と告げたのです。彼の回心と遜った態度は、神から赦しと最高の恵みを引き出すこととなりました。

 12世紀のシリアで活躍したダマスコの聖ペトロは、回心について次の教えを遺しています。
 「回心によって、新しいスタートを切ることはいつでもできます。もし再び倒れたなら、もう一度立ち上がりなさい。何があっても、自分の救いに絶望することがないようにしなさい。敵(悪魔)に進んで身を委ねない限り、あなたの辛抱強い忍耐と痛悔の思いによって、あなたの救いは確実なものとなるでしょう。

 神の助けをないがしろにして絶望してはなりません。神は試練や誘惑を通して、あるいは神のみぞ知る別のやりかたによって、あなたに回復をもたらすでしょう。あなたが辛抱強く試練を耐え忍び、遜って神に立ち帰ることを望むのなら、速やかに愛をもって導き、(悪魔に)囚われているあなたの霊を救ってくださいます。あなたを癒してくださる神がおられることを、決して忘れないでください。」

 わたしたちもこの教えを実践する者となることができますように、遜って回心の恵みを祈り求めましょう。


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