-ヨブ 37:21-

いま、光は見えないが、それは雲のかなたで輝いている。

-中村神父-

 人生には様々な予期せぬ出来事が起こるものです。それが喜ばしいものであるならば良いのですが、テレビや新聞、インターネットに飛び込んでくる目を覆いたくなるような悲惨な状況が現実に起こることを、わたしたちは理解しています。もし、心身ともに打ちのめされるような事態が我が身に生じたとすれば、皆さんはどのようにそれを受け止め、対処していくのでしょうか。

 ヨブ記の主人公であるヨブは、最も信仰深く、神に忠実な人として知られていました。彼は豊かな財産に恵まれ、日々神に感謝しつつ、罪を犯さずそれを避けることを念頭に置いて生活していたのです。しかし、神の前に御使いたちが集う場に地上を巡回していたサタンも現れ、ヨブのように神に忠実な者はいないと断言する神様に対して、ヨブが信仰深いのはそこに利益があるからであって、もしそれを奪い取られたならば神を呪うに違いない、と主張しました。神からヨブを試みる許しを得たサタンは、ヨブの財産である家畜の群れに壊滅的な被害を与え、息子と娘たちの命を奪うほどの苦難に遭わせたのです。それでも神に忠実であろうとするヨブに対して、サタンは重い皮膚病を患わせ、失意のどん底で神を呪うようにとヨブを更なる苦境に陥れました。

 ヨブの災難を耳にした三人の友人はヨブの元を訪れて、当初は慰めの言葉を掛けていたのですが、彼らのやり取りは次第に変化し、罪がない者に対して神が苦難を与えたことに疑問を抱き、ヨブが何か大きな罪を犯したに違いないという観点からヨブを責め始め、罪を認めるよう促す展開に発展します。ヨブは彼らに反論し、自分には罪がないことを声高に主張しました。

 彼らのやり取りの一部始終を見ていた若者エリフは、怒りを表しながらヨブを責め立てます。ヨブの信仰がいびつであり、神を軽んじていることを指摘し、全能である神がどのような方であるかを力強く主張するのでした。「いま、光は見えないが、それは雲のかなたで輝いている」というエリフの言葉は、人智の及ばぬ神の現存を表しているのでしょう。ヨブに対するエリフの𠮟責は、ここで終わります。

 先の三人の友人による咎め立てに対して雄弁に反論していたヨブは、不思議なことにエリフの言葉には一切の反論を行っていません。ヨブはエリフの厳しい指摘に対して、自分の信仰の足りなさを実感し、彼の主張に屈服したのでしょうか?答えは雲に包まれたままです。

 エリフの主張の後に続くのは、主なる神のヨブへの言葉です。エリフの言葉をさらに強めるように、ヨブの神への知識の不足と信仰の足りなさを矢継ぎ早にヨブに投げ掛けます。ヨブは自分の信仰と理解力の不足を認め、一切反論することなく、悔い改めることを誓ったのでした。この後、神様の求めに応じてヨブの三人の友人のために祈ったヨブは、その功績が認められて以前の二倍に及ぶ財産を手に入れ、新たな子供たちに恵まれて、以前よりも幸福な人生を送ることができました。

 ヨブの身に起こったことをどのように理解したら良いのか、明確に答えを出すことはできません。それは不意の不幸がわたしたちを襲った時も同様です。その出来事は単なる偶然ではなく、神様の何らかの思惑が働いているものと受け止めて、つぶやかずに神への信頼を抱いて前に進んでいくならば、神様はヨブにしたように、いちばん良い恵みを与えてくださることでしょう。良い時も、悪い時も、神様に信頼を寄せて生きていきたいものです。


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