-ルカ 22:19-

これは、あなたがたのために与えられるわたしのからだである。
わたしの記念としてこのように行いなさい

-中村神父-

 ふとテレビをつけてチャンネルを回してみると、食事をメインテーマにした番組が多いことに気がつきます。それは、美味しいと巷で評判のレストランのお勧めメニューであったり、郷土料理や新鮮な野菜と珍しい食材を用いたものを紹介するものであったり、番組内容は多岐に及ぶものですが、多くの視聴者が食べてみたいと興味を持つように構成されています。その場所が近場であるなら今度足を運んでみようかと思う人も多いのではないでしょうか。美味しい食事はわたしたちの日々の生活に活気と潤いを与えてくれます。

 時間に追われる現代社会では、家族が揃って食卓を囲む日は少なくなっていますが、家族が一堂に会して食事をするのは、家族間のコミュニケーションの重要なひと時であることに変わりはありません。聖書の時代は食事の機会がとても大切にされていました。イエス様の時代のユダヤ社会において、食事を共にするのは最も重要な人と人との交わりの機会だったのです。

 イエス様が受難に遭われる前に弟子たちと夕食を共にした、いわゆる「最後の晩餐」は、安息日が始まる金曜日の日没後に家族が揃って食卓を囲む伝統的な形式で行われました。一般の家庭であれば、家長である父親が18の祝福(シェモネ・エズレ)と言われる祈りを捧げ、祝福されたぶどう酒を家族で回し飲み、パンを食します。伝統的なユダヤ人の家庭では、多少の違いはあれ現代でも同様の食事が行われています。

 イエス様はこの食事に特別の儀式を付け加えられました。それが表題にあるイエス様のからだである聖別されたパンと、イエス様の血である聖別されたぶどう酒です。ここでイエス様が言う「記念」とは、単なる思い出としての記念ではありません。ギリシア語の「ἀνάμνησις(アナムネーシス)」を直訳すれば、「想起」という言葉が当てはまります。つまり、「あたかも今ここで、それが行われているかのように思い起こす」という意味です。

 これは御ミサを通して、イエス様が最後の晩餐で行った御聖体の聖別と、十字架の上で命をささげられた新しい過越しの神秘が、秘跡という形を通して同じ意味と重みを持って行われているということです。言い換えれば、わたしたちは御ミサをお捧げする毎に、最後の晩餐で当時の12使徒が体験したのと同じ恵みを秘跡としていただき、十字架の上で流されたイエス様の血と同じ恵みを受けているということになります。

 御ミサは「感謝の祭儀」と呼ばれます。御ミサの中で司祭が唱える奉献文も、御聖体も、ギリシア語では同じ「εὐχαριστία エウカリスチア」で表されます。わたしたちも御ミサに与り御聖体をいただく度に、新たに命をお捧げ続けてくださっているイエス様に、心からの感謝をお捧げしましょう。


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