-マタイ 27:46-

わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか

-中村神父-

 近年では異常気象のニュースが話題にならない日はないのではないかと思われるほど、世界中で自然災害が多発しています。千年に一度と言われる大規模な地震や洪水、干ばつなどの異常気象は、毎年のように日本でも発生し、被災による困難に直面している人は少なくありません。

 先日、秋田での豪雨災害の報道を目にしたことで、久しく連絡を怠っていた友人に電話を入れてみました。話を聞いてみると、彼の住むアパートはぎりぎりのところで冠水を免れたらしく、直接的な被害は軽微なものだったらしいのですが、周囲の家や畑などは床上浸水などの被害を被ったところが多々あるようでした。彼も通勤路が冠水していたために幾つか道路を迂回して何とか職場にたどり着くことができたとのことです。不幸中の幸いと言えばその通りですが、周りの状況を考えると素直に喜ぶことはできません。

 秋田は日本でも有数の農業の盛んな地域であり、それを生業とする人は数多くおられます。彼らは、祖先から受け継いだ田畑を懸命に耕作して、手塩に掛けて育てた作物を私たちの食卓に届けることに使命感を持って働いている人々です。今回の災害によって、収穫を断念せざるを得ない状況に直面したとき、これまでの労苦が水の泡となってしまうことに、誰もが絶望感を抱かざるを得ないのではないでしょうか。

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。この言葉は、イエス・キリストが十字架に磔になったときに発した七つの言葉のうちの一つです。イエス様に反感を持ち、十字架の周りを取り囲んでいた人々は、この言葉を聞いてイエス様に酸いぶどう酒を飲ませようとしました。これは気付け薬であって、イエス様の苦しみをさらに引き延ばそうとする魂胆があったのです。

 この言葉だけで判断すると、イエス様は確かに絶望的な思いに駆られていると誰もが思うことでしょう。しかし、これは詩編22編の冒頭部と同じ言葉であることに気がつくなら、決してそうとは言えないのです。詩編22編は、ダビデが命の危機に直面した時に己の心情を詩にしたものと伝えられています。詩の3分の2は絶望的な状況下にあるダビデの思いが語られ、その姿は十字架に磔にされたイエス様を思い起こさせます。それはまさしく、愛する神様にさえも見捨てられたのだとしか思えない状況だからです。

 ところが後半の3分の1は、まるで別の詩ではないかと思わせるほどに、内容ががらりと変わってしまいます。それは神様への心からの感謝と賛美の思いに溢れたものであり、希望に満ち満ちた人が詠んだものとしか思えません。イエス様の口をついて出た言葉が詩編22編の冒頭部であるとすれば、たとえ絶望の渦中にあっても、私は神様への信頼を決して失いません、というイエス様の決意を表したものだったのではないでしょうか。

 わたしたちも、秋田の被災した人々と同じ状況ではないにせよ、予期せぬ不幸に見舞われることが起こるかもしれません。そのときはイエス様の心情を思い出して、神様への信頼と希望を失うことがないようにしたいものです。


フッター