2024年2月 ▶︎朗読を聞く 

私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。

-ヨハネ13章34節-

-来住神父-

「愛する」ことは キリスト教の金看板と思われています。実際そうなのですが、イエスがここでは「互いに」と言っておられることは見逃されがちです。 無私の愛を説いているのはキリスト教だけではありません。まともな宗教はすべて無私の愛を説いていると思います。キリスト教の特徴は、 「互い」に愛し合うことです。

「相手がどう出ようと、 自分は愛と善を行うぞ」という姿勢は英雄的で、 賛嘆に値します。 しかし、 こういう人は孤高の人になってしまいがちです。キリスト教の目指すのは、孤立した高潔な人物を数多く生み出すことではありません。愛の豊かな交流を生み出すことです。「他人を変えることはできない。 変えることができるのは自分だけだ」という言葉があります。 キリスト教界隈でもよく使われる言葉です。 夫婦間に深刻なトラブルがあった時に、奥さんへの助言としてよく言われます。

しかし、 この姿勢には、キリスト教信仰にとって 最も大事なこと、相互性(mutuality)、交互作用性(reciprocity)がまだ顕れていません。 確かに、他人を自分の都合に合わせて「変えよう」とするのは キリスト教的ではないでしょう。 そして実際にも、そんなことはできません。 しかし、 周囲の人に変貌を「期待する」ことを止めないのはキリスト教的です。

私の愛が、相手を和らげ始める。あなたの内に潜んでいる愛を、そっと動かす(activate)。そして、今度は、動き始めた相手の愛に励まされて、さらに私は大胆に愛するようになる。こうして、愛のスパイラルが少しずつ動いて、大きな輪になっていく。長い目で、これを期待するのがキリスト教です。その果てに「神の国」が現れるのです。

ただし、その道程は長い。 行き違いが深刻なものである場合、愛のスパイラルが動き始めるまで時間がかかります。パレスチナを見れば分かるでしょう。

希望と忍耐が必要です。 死のこちら側では、愛のスパイラルが動き出すのはほとんど見えない現場もあります。しかし、キリスト者の視線は、死の向こう側も見ているのです。 個人間の争いであれ、民族間の争いであれ、相手の変貌を「期待する心」は失わないようにしたいものです。


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