2024年6月 ▶︎朗読を聞く 

なぜ私はあなたの恵みを得ることなく、この民全てを重荷として負わされねばならないのですか。

-民数記11章11節-

-来住神父-

これは旧約聖書にある話です。歴史上のある時期、イスラエル人はエジプトで奴隷状態に ありました。モーセという人が、彼らを救い出す役割を、神から委ねられて、エジプトを脱出します。

脱出後、今のパレスチナまで 長い 苦しい旅を続けます。旅が苦しいので、イスラエル人はリーダーのモーセに色々と苦情を言います。

モーセは自分も一杯いっぱいなのですが、その上に、自分が奉仕しているつもりのイスラエル人に食べ物の不満まで言われて、とうとうブチ切れました。そして、神様に「どいつもこいつも、ろくなやつらじゃない。もうやってられませんよ」と文句を言います。そしてリーダーの座から降りたいと言います。

懇願されて、社長の座に着いた人にはありそうな話です。社長というものは、ワンマンに見える人でも、腹の中では、「どいつもこいつも、わしの苦労も知らないで、気楽に文句ばかり言いおって」と腹を立てているものだそうです。

人間が神に文句や愚痴を言う ことは、キリスト教の特徴ではないかと思います。多分、他の宗教の偉い人も愚痴や文句を言うことはあると思いますが、それはその宗教の本質とは関わりのない ことでしょう。思い切って「愚痴や文句を言える」というところに、キリスト教の神の特徴があるのです。

テレビドラマには、よく元気のよい、お節介焼きのヒロインが、他人の人生に積極的に口を出すシーンがあります。例えば、娘が母親と絶縁しようとしているとすると、ヒロインのホテル・ウーマンは「あなた、本当にそれでいいの?」とか言います。すると、口を出された方は腹を立てて、「ほっといてよ、あんたにいったい何がわかるの!」と怒鳴ります。必ず、怒鳴るのです。こういう場面を見た人は多いと思います。テレビ・ドラマですから、このお節介がだいたい功を奏して事態は好転します。

こういう筋立てが多いのを見て思うことは、「私たちは人にお節介を焼かれたいのだ」。そして、「あなたに何がわかるっていうのよ!」と、たまには怒鳴ってみたいものだ。

しかし現実には、お節介をしてくれる人は少ない。私たちは憤懣を内に溜めて、黙りこくって生き続けるしかないのです。キリスト教の神は、人間が「もう、こんなこと、やってられませんよ!」と怒鳴ることもできる神なのです。


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