2024年8月 ▶︎朗読を聞く 

もし、この日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…。しかし今は、お前にはそれが見えない。

-ルカ 19章 42節-

-来住神父-

囲碁の言葉に「岡目八目」というのがあります。勝負の渦中にある人より、横で見ている人に状況がずっと良く見える。八目置かせてもらうぐらいのアドバンテージがあるということです。

多くのことに腹を立てて、 機会がありさえすれば強い言葉を口に出すという人がいます。最近よく言われるキレる老人というのはそれです。

そういう人を見ると、私たちは迷惑な人だと思います。第一 、怒っている人自身が幸せになっているとは思えない。 怒鳴ることによって、 一時は「オレは言ってやったぜ!」とスッキリするかもしれませんが、それはほんの一時の快楽です。人は段々自分から黙って離れていきます。権力者なら、損得勘定もあって離れないでしょうが、力のない人はさらに孤独になっていきます。

しかし、この人に「そんなことでそんなに怒らなくてもいいじゃないですか。 誰も幸せになっていませんよ」 と忠告しても、火に油を注ぐだけです。「 私は問題にすべきことを問題にし、 批判 すべきことを批判しているだけだ」 と言うでしょう。 自分の正義の中に囚われた人には、 平和への道が見えていないのです。

しかし、私たちも、もっと高い目からみれば、平和への道が見えていない人なのかも知れません。この忠告を自分の身に当てはめて、「 いま私が 強い言葉で主張していることは、そんなに問題にすべきことなのか」「 それで誰かが幸せになっているのか」 と問うのがよいでしょう。人間は完全に自分を 客観的に見ることはできないが、聖書の言葉に助けられて、ある程度はそれができるからです。

何でも「まあ、いいんじゃない」と流してしまうのが良いわけでないことは確かです。怒るべきこと、激しく抗議すべきことというのは世の中にあるでしょう。しかし、そういう一般論ではなくて、「今、私が問題にしていることは 大声を出して言い立てるほどのことなのか」です。 スーパーのレジで、お釣りの渡し方が自分の考えと違うからといって、大声を出すほどのことか。

私たちには、世界全体を平和にする力はありません。ウクライナの戦争を終わらせることも出来そうにありません。しかし、 自分の身の周り、 半径三メートルにいくらかの平和をもたらすことはできるかもしれないのです。


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