-アッシジの聖フランシスコ-

理解されるよりも、理解することを
愛されるよりも、愛することを

-ノノイ神父-

 このみ言葉はアッシジの聖フランシスコが唱えた祈りの中の有名な一節です。

 この祈りでアッシジの聖フランシスコが言いたかったことは、自分自身ではなく、他の人を優先することの大切さです。したがって、それは利他の心と自己犠牲の祈りに等しいものです。

 よく考えてみれば、この祈りはキリストの生き方に自分も近づきたいという願いに他なりません。イエスご自身がマルコ10:45の中で、「人の子(イエス・キリスト)は仕えられるためではなく、仕えるために、また多くの人の贖いとして、自分の命を捧げるために来たのである。」と言っておられます。

 当時と比べて、現代社会はとても便利になり、自分一人で生活することが可能となりました。これは残念ながら、ともすれば不健康な自己愛を生む可能性を秘めています。自己愛だけで一生を過ごすことは可能ですが、このままでは空虚で無意味な人生になってしまいます。キリストは、真に充実した人生を過ごす秘訣は人のために自分を無にすることであると私たちに示されました。

 皆さんご存知の芥川龍之介の「蜘蛛の糸」には、多くの罪を犯した大泥棒に対してお釈迦様が示された慈悲の心が描かれています。この大泥棒は生前行った一匹の蜘蛛を助けた善い行いに対して、お釈迦様が慈悲の心で報いてくださったのに、自己中心的な行いのために、結局再び地獄に落ちてしまいました。

 このお話は仏教に関係することですが、キリスト教にも通じるものがあります。

 自分自身だけに夢中になり続けることは、神様から愛されているにも関わらず、その愛を人に分かち合っていないことになります。神は自分自身のことよりも他人を優先する人に対して王国への扉を開かれています。

 私たちが真の愛に生き、神の国に迎え入れられるように、アッシジの聖フランシスコの祈りを唱えましょう。

 「神よ、私に理解されるよりも、理解することを、愛されるよりも、愛することを望ませてください。」


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