-マタイ 5:3-
自分の貧しさを知る人は幸いである。
天の国はその人のものだからである。
-中村神父-
現代社会に生きるわたしたちは、物質的な豊かさにあふれた毎日を過ごしています。夜遅い時間に小腹を満たしたいと思うなら、24時間営業のコンビニエンス・ストアやスーパーで買い求めることができますし、電化製品や書籍などの生活用品や趣味に関する物も、わざわざ店舗に行かずともインターネット通販で手軽に手に入れることができます。
そのような社会状況は、利便性の良い快適な生活を送るためには不可欠なものであり、もはや以前のような生活に後戻りするのは考えられないと思う人は多いでしょう。言い換えれば、欲するものを自分のものにするために、豊かな富を蓄えることこそが人生の目的であると割り切って考える人もおられるかも知れません。
しかしながら、人はこの世で永遠に生きることはできず、誰であっても人生の終焉の時がやってくるのです。唯物論的に考えるならば、そこですべては終わりとなります。それまで懸命に働いて積み上げたものは、あなた以外の誰かの手に渡ってしまうのです。人生とは、そのような結末で括られるものなのでしょうか?
イエス・キリストは、小高い丘に登って大勢の人々にたくさんの教えを説きました。今月のみことばは、その時に話された「幸いなるかな」で始まる真福八端という教えの最初に述べられたことばです。「自分の貧しさを知る人は」という言葉の原文を直訳すると、「霊において貧しい人は」という訳文になります。イエスの言う霊とは、人間の根幹に存在する、その人そのものを意味しています。それは神様の似姿として創られ、永遠に終わることのない命に生きる、尊いその人自身なのです。
その尊い存在が貧しくあれば幸いだとイエスは言います。それは物質的な欠乏だけではなく、神様以外に頼ることができないほどの困難な境遇に置かれた人を指しています。日々の生活に困窮し、神様が与えてくださった意図とは異なる、厳しく歪曲された律法の解釈を押し付けられ、神様に助けを祈り続けるしか生きる術がない人。そのような人は幸いであり、神様がお住まいになる天の国に入ることができると、イエスは言うのです。
この世での人生はいつか終わりを迎えます。しかしながら、その人は消滅することなく、神様がおられる天の国で永遠の幸福に生きることができるのです。いつかは手放さなければならない物質的な幸福を追い求めるよりも、周りの人を大切にし、日々の生活で神様の助けを祈り求めるなら、神様はあなたという尊い存在を決して疎んじることはありません。イエスの教えに耳を傾け、永遠の命の恵みに希望をもってこの人生を歩んでいきましょう。
